“世界の福本”育てた64年東京五輪リレー走者、浅井浄さんが願う――サムライたちよ、つなげ金の夢を

[ 2019年11月12日 10:00 ]

2020 THE YELL レジェンドの言葉

64年東京五輪、男子400メートルリレー出場時の写真を持つ浅井さん(撮影・亀井 直樹)
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 固い絆とサムライ魂でリレーの金メダルを狙う日本チーム。陸上男子400メートルリレーの一員として64年東京五輪に参加した浅井浄さん(79)は「あの頃はチームワークなんかなかった」と苦笑いしながらも「今の日本なら金メダルも夢じゃない」とエールを送る。引退後はプロ野球阪急のコーチとして世界の盗塁王・福本豊を指導。異色の経歴を持つレジェンドが、黎明(れいめい)期の日本リレーについて教えてくれた。

 現役時代の浅井さんの最大の武器はスタートだった。極端に低い姿勢から飛び出して一気に加速する。「低い姿勢取ろうと思うたら、普通は腰がぐにゃっと曲がっちゃうんですわ。体の線がビシッと伸びてないときれいにスタートできへん。スタートなら誰にも負けん自信はありましたね」

 陸上を始めたのは兵庫県明石市の衣川中から。「誰かに教えられたんやなく最初からこうなっとった」という弾丸スタートで明石高3年の時にインターハイと国体を制覇。関学大でも60年から63年まで関西インカレ4連覇を飾った。

 64年東京五輪の100メートルの参加標準記録は10秒4(手動計時)。浅井さんは何度も同タイムを出したが、すべて追い風参考になってしまい、個人としての100メートル代表にはなれなかった。リレーメンバーには入ったものの「100メートルで出たかった」のが本音だった。

 当時の短距離選手にとってリレーはしょせんおまけのようなもの。強化合宿でもリレーの練習はほとんどなかった。「バトン練習なんて一度もなかったですわ。みんな仲間というよりライバルやったしね。だからチームワークもなかった」。当時10秒1の日本記録を持っていた飯島秀雄は一緒にタクシーに乗ることさえ拒否したという。それほどお互いのライバル心は強かった。

 本格的にバトンパス(当時はオーバーハンド)の練習をしたのは選手村に入ってからのこと。スタートが得意な浅井さんが1走を務め、2走飯島、3走蒲田勝、4走室洋二郎。浅井さんは入念にスタート練習を繰り返したが、なぜかレース直前になって突然3走を命じられた。

 「なんでそうなったんか今でも分かりませんわ。3走の練習なんて一度もしたことがなかった。もうむちゃくちゃですわ」

 案の定10月20日の予選では2走の蒲田からバトンを受ける際に(受け渡し区域を越える)オーバーゾーン気味になり、大きくタイムをロスしてしまった。41秒0で6位。かろうじてタイムに拾われたものの、準決勝では40秒6の8位に終わり、目標の決勝進出は果たせなかった。

 「自分なりに精いっぱい走れたとは思いますよ。昔はみんなおおざっぱで、バトンパスも“この辺で出てこの辺で渡せばええや”みたいな感じやったしね。まあ、仕方ないんちゃいますか」

 五輪後は一般社員として阪急電鉄に就職。運転士の資格も取ったが、69年に突然、プロ野球・阪急のマネジャーを命じられた。当時の監督は西本幸雄氏。ただ走るだけの自主トレを見た浅井さんは思わず「何ちゅう原始的な練習してまんねん」とつぶやいてしまった。すかさず西本監督の「だったらお前がトレーニングコーチをやれ!」の一言で、全く未知の世界に飛び込むことになった。

 球界初の筋力トレーニングを取り入れる一方で、2月の高知キャンプで西本監督から「こいつは足速いけどバラバラや。うまいこと走れるようにできへんか?」と頼まれたのが新人の福本豊だった。

 「福本の走り方は全く話にならんかった。陸上と野球の走り方はちゃうねん!と言われることもあったけど、どの競技でも走ることは一番の基本。塁間でどれだけ早くトップスピードに持っていけるか。たった25メートルやから低いスタートからそのまま行ってまえ、そんでドーンと滑り込んだらええと」

 1年間かけてマンツーマンで五輪選手の走り方を伝授した結果、福本は翌70年に75個で初めて盗塁王を獲得。72年には122試合で106盗塁の“世界記録”を樹立した。

 それから47年。浅井さんの今一番の楽しみは、もちろん来年に迫った東京五輪だ。

 「今の日本はミリ単位のバトンパスとチームワークで世界と対等に戦っている。外国勢が逆に日本に学んでいるような感じやもんね。彼らならきっとできますわ。ここまできたら何としても一番上まで行ってほしいね」

 対抗心だけでは果たせなかった55年前の夢。固い絆で結ばれた後輩たちが、その夢を実現させてくれることをレジェンドは願っている。

 《西本、上田両監督のもとで》現役時代に通算1065個の盗塁を記録した福本氏は、著書や講演などいろいろなところで「浅井さんには手の振り方から教えてもらって、2、3歩でトップスピードに入れるようになった」と感謝の言葉を口にしている。阪急時代に西本幸雄、上田利治両監督に仕えた浅井さんは「西本さんは選手にとって育ての親。上田さんは出来上がった選手を引き継いだので思い切った采配ができたんやと思う」と懐かしそうだった。

 《現在でも子供にリレー指導》五輪や世界選手権での日本チームの活躍によって、リレーは子供たちの間でも人気スポーツの一つになっている。浅井さんも孫が通っていた宝塚市内の小学校の校長先生に頼まれ、今でも定期的に子供たちの指導を行っている。対抗戦では常に好成績を挙げているそうで「僕らの時代はオーバーハンドパスやったけど、今はアンダーハンドで教えてますわ。もう体は動かんから口ばっかりやけどね」と言いながらも楽しそうだった。

 ◆浅井 浄(あさい・きよし)1940年(昭15)2月6日生まれ、東京都中央区出身の79歳。兵庫・明石高3年時のインターハイ、国体100メートルで優勝。関学大では関西インカレ4連覇。61年ユニバーシアード(ソフィア)、62年アジア大会(ジャカルタ)代表。64年東京五輪にはリレーメンバーとして出場した。100メートルのベストは10秒5(手動計時)。

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