【コラム】金子達仁

サッカーしかやったことがない選手が多すぎる

[ 2019年8月23日 13:30 ]

 わたしより年配のサッカーファンの中には、このスポーツに親しむきっかけは東京五輪だった、という方が少なくない。それまでは何の興味も関心もなかったのに、まさに「百聞は一見にしかず」だったというのである。

 当時、五輪のサッカーは純粋にアマチュアのための大会だった。そのレベルは、62年のW杯チリ大会や66年のイングランド大会に比べれば格段に下だったことは間違いない。それでも、何の先入観にも毒されていなかった少年たちの眼(め)には、手を使わずに広いピッチを駆け回る競技が、素晴らしく魅力的なものに映ったということだろう。

 おそらく、同じことは来年も起こりうる。ひょっとすると、今年の秋にも起こりうる。いまはハンドボールやホッケー、スポーツクライミングに何の興味ももっていない人たちが、まもなくラグビーのW杯が日本で開催されることも知らない人たちが、突如としてその競技の魅力に取りつかれる。これはもう、可能性があるというよりは、ほぼ確実だと言っていい。

 となれば、サッカー界もこのままでいいはずがない。

 幸いなことに、ここ四半世紀の間、日本のサッカー界は才能の獲得発掘にほとんど苦労をしないですむ時代を過ごしてきた。日本の子供たちにとってサッカーは人気No・1のスポーツであり、少子化が進むようになっても、競技人口の減少が嘆かれることはなかった。

 だが、これからはふんぞりかえってもいられない。黙っていても運動能力の高い子供がサッカーに集まってくる時代は、まもなく終わる。「みんながやっているから」というきっかけが、いまよりも希薄になる時代がやってくる。

 残念なことに、令和となったいまも、小学生のサッカー会場では指導者の怒声、罵声が聞こえてくる。パソコンやスマホの“ゲーム”で負けたりエラーをして怒鳴られることはないのに、なぜかスポーツの“ゲーム”では指導者のパワハラがまかり通っている。プロの世界ですらそれが問題になる時代となったのに、なぜか日本の子供たちははるかに酷(ひど)い暴言にさらされている。

 理不尽な要求に耐えること、どんなに苦しくても最後までやり抜くことに必要以上の意味を見いだす考え方は、おそらく、どんどんと嫌悪感をもって受け止められるようになる。日本のスポーツ界では常識だったことのいくつかが、実は極めて異質だったことに気づく人も増えてくる。手遅れにならないうちに、つまり「サッカー離れ」が深刻な現実となって出現しないよう、協会にはリーダーシップを発揮していただきたい。

 とはいえ、少子化が進んでいる以上、サッカーだけが今まで通りに数と質を確保するというのは不可能に近い。求められるのは、子供たちが複数の競技を楽しむことのできる環境の整備である。サッカーしかやったことがないサッカー選手、野球しかやったことのない野球選手が、この国には多すぎる。興味の対象が広がるということは、すなわち、スポーツ界全体の市場規模が広がるということでもあるのだが。(金子達仁氏=スポーツライター)

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