×

同時代のレジェンド・釜本邦茂氏 ペレさんは「どんなスポーツでも一流になったと思う」

[ 2022年12月31日 04:30 ]

77年、ペレさん(中央左)の引退試合で握手を交わす釜本氏(中央右)
Photo By スポニチ

 サッカーの元ブラジル代表で「王様」として世界中のファンに親しまれた往年の名選手ペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)さんが29日、大腸がんの進行などによる多臓器不全のためサンパウロの病院で死去した。82歳だった。

 親日家だったペレさんは選手として4度来日し、6試合でプレーした。元日本代表の釜本邦茂氏(78)は77年のペレさんの引退試合に出場し、84年の自身の引退試合でも競演。同じ時代を生きた日本のレジェンドが“王様”の凄さを語った。

 釜本氏は、親交があったペレさんの訃報に「話は聞いていたが、残念に思う」と肩を落とした。

 ニューヨーク・コスモスに所属していたペレさんが77年に国立競技場で開催した引退試合に出場。84年の自身の引退試合にはペレさんが駆けつけて出場した。試合後には西ドイツの司令塔オベラートとともに、肩車をしてくれた。「非常に光栄なことだった。花を添えてくれて感謝している」。日本を代表するストライカーと王様が互いに認め合っていたからこそ実現したビッグマッチだった。

 釜本氏が初めて4つ年上のペレさんを知ったのは、早大時代。情報のない時代で、W杯も一般的には知られていなかったが、日本代表の合宿で17歳でデビューした58年W杯の試合を16ミリフィルムで見せられた時だった。「僕らがまねできないテクニックを持っていた。精神的にも肉体的にも優れ、どこのポジションでも、どんなスポーツでも一流になったと思う」と振り返る。そして、「僕もこういう選手になりたいと思ったが、その結論が“到底、なれない”となった。目標になる別の選手を探さなければと思った」とレベルの違いを痛感させられたという。

 ともに引退した後は、02年W杯の招致活動をしていた際などに再会。「目と目が合って頑張れよという感じ、優しい人だった」と、いつも励まされたという。06年W杯ドイツ大会では、1次リーグ最終戦でブラジルと対戦し、1―4で大敗。日本チームの団長だった釜本氏はスタンドで一緒に観戦、「会ったのはその時が最後」と、さみしそうに振り返った。

 ≪ペレさん選手時代の来日アラカルト≫☆72年5月 サントスの一員として東京・国立競技場で日本代表と初対戦した。公式発表で5万5000人の大観衆を集め、試合直前にサントスが日の丸を掲げて入場すると、興奮した大勢の子供や大人がスタンドからピッチになだれ込んだ。試合では後半29、31分に2点を決め、3―0の快勝に導いた。

 ☆76年9月 ニューヨーク・コスモスを率いて、日本リーグのブラジル人選手や大学生を含む日本選抜と2試合を行った。神戸での第1戦は無得点で0―0、東京での第2戦は1アシストで2―2だった。

 ☆77年9月 コスモスでの現役引退世界ツアーの一環で「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」と銘打った2試合が実現した。古河電工(現千葉)との第1戦は、終了間際の直接FKで大きく曲がるバナナシュートを決め、4―2で試合を締めくくった。4日後の日本代表戦は無得点に終わったが、釜本の代表最後の試合でもあり、試合後に2人はユニホームを交換した。日本サッカー協会は2試合の収益で一時1億円を超えた負債を完済し、慢性赤字から脱却できた。まさに日本協会の救世主となった。

 ☆84年8月 釜本の引退試合に「友情参加」。日本リーグ選抜と対戦した釜本のヤンマー(現C大阪)で後半8分からプレーし、もう一人のゲスト参加者、かつての西ドイツの司令塔オベラートの得点をアシストした。2人は試合後、釜本を肩車して功績を称えた。

続きを表示

2022年12月31日のニュース