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女子サッカーと沢穂希 W杯制覇までの歴史

[ 2011年7月19日 06:00 ]

<日本・米国>日の丸を掲げ場内を歩く沢

女子W杯決勝  日本2―2米国(PK3―1)

(7月17日 フランクフルト)
 世界一に輝いたなでしこジャパンだが、日本女子サッカーの歴史は順風満帆ではなかった。その道のりは、府ロクサッカー少年団で男子に交じり、スタートしたMF沢穂希(32=INAC)のサッカー人生と重なる。日本女子サッカーと沢のW杯制覇までの歴史をたどった。

 世界のクイーンとなった沢だが、実は本気で現役引退を考えた時期があった。米国リーグのアトランタに在籍していた04年。資金難により米国リーグの休止が決まり、所属クラブがなくなった。当時25歳の沢は米国人男性の恋人がおり、サッカーを辞めて結婚し、米国に永住することを考えた。結婚か、サッカーかの究極の選択。恋人との相談の末、日本に帰国してサッカーを続けることを決めた。決断を後押ししたのは恋人の「サッカーを辞めて本当に後悔しないの?」の言葉だった。

 1歳年上の兄の影響で小学2年時に府ロクサッカー少年団で競技を開始した。運動能力の高さは男子の中でもずばぬけており、中心選手として活躍。沢に翻弄(ほんろう)された相手選手から「女のくせに」と言われて、激怒。試合中に相手を追いかけ回し、試合が一時中断したこともあった。小学6年時にはブロック大会を圧倒的な強さで勝ち抜き、都大会に出場。当時は都大会には女子が出場できないルールがあり、ピッチ外から仲間のプレーを見届けることしかできずに落ち込んだこともあった。

 現在も最年少記録として残る15歳91日で迎えた93年12月6日のフィリピン戦で代表デビュー。いきなり4得点の離れ業をやってのけると、日本代表の中心選手として君臨し続けた。国際Aマッチ出場173試合80得点は、ともに男女合わせての最多記録。五輪出場3回、W杯出場は今大会を含めて5回を誇る。00年シドニー五輪出場を逃して日本女子サッカーが低迷期に入った時には、責任を背負い込んだ。

 08年北京五輪で4強となり、あと一歩でメダル獲得を逃すと、日本選手をスピードとパワーで優る欧米選手との実戦経験の不足を痛感。当時の日本協会の犬飼会長に女子選手の欧州移籍の必要性を訴えた。現在は日本協会のバックアップもあり、安藤、永里ら、なでしこジャパンの主力が欧州で活躍。今大会での躍進の要因となった。日本女子初のサッカークラブFCジンナンが、日本の女子チームとして初めて国際大会に出場した78年は、くしくも沢が生まれた年。日本女子サッカーのW杯制覇までの道のりは、沢自身の歴史ともいえる。

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