JUJU 下積み時代を回顧「あてどもない制作期間」 疲労困憊「“ソニー契約切ってくれないかな”って」

[ 2023年12月3日 13:56 ]

歌手のJUJU
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 歌手のJUJU(年齢非公表)が2日放送のTBS「人生最高レストラン」(土曜後11・30)にゲスト出演。下積み時代を振り返った。

 高校卒業後、歌手を目指し、単身で米ニューヨークへ渡ったJUJU。知り合いなどは全くいなかったといい、「ニューヨークに行ったらどうにかなる気がする、っていう何の根拠もなかったんですけど」と笑った。

 「行った時に武者震いして楽しかったのは最初にうちで、だんだん現実が見えてくるというか。道端で歌っている人がめちゃめちゃ聞いたことがないぐらい歌が上手いとか、レベルが違うし、私は今まで歌えるような気がしていたけど、全然ダメだな、っていうのを思って。でも、私にしか歌えない歌が絶対どこかにあるだろうなと思って、歌うのはやめなかった」と振り返った。

 当時のニューヨークについて「とにかくパーティーシーンがめちゃくちゃ凄かったんですよ。週7でクラブに通っていて、来る人も男性も女性もめちゃくちゃかっこいい人しかいなかったんですね。日本人の女の子が1人で遊んでいるのがあまりに珍しかったし、イカしたお姉さんとかが寄ってきて“何人?”“日本人!”“何しに来たの?”“歌、歌いに”って言うと“歌えるの?歌ってみてよ!”って言われて歌うと“歌えるわね!ちょっと待って私の友達、プロデューサーだから連れてくる”とか。それで“さっきの歌、また歌って!”って言われて歌うと“スタジオ入ろっか”“デモ作ろうよ”って」と話が進んだという。

 ただ、チャンスは得るものの、デビューには至らず苦難の日々が続いたという。そんな時、「ニューヨークで初めて日本人のDJで認められたDJ Hiroっていう人がいて、その人といろいろと話していくうちに、デモ作って、DJ Hiroが日本に帰って、いろいろなレーベルの方と会って、ある日、突然、“今日、ソニーミュージックの人とご飯食べる”って、ニューヨークで言われて、その時に会ったのが今のプロデューサー」と運命を出会いを振り返り、それが単身でニューヨークへ渡ってから10年後だった。

 そして2004年に「光の中へ」でCDデビュー。連続で2枚のシングルを発売したものの「誰にも届かなくて」と回顧。「そこから闇雲にリリースし続けるのはただの消費と浪費になるから、プロデューサーに“本当に必要な歌を探しましょう”って言われて。私はニューヨークにいて、DJ HiroとE-3って人と曲作りをしていて、毎週日本からお題が飛んできて、“今、日本ではこういうのが流行っているから、こんなタイプの曲を今週は4曲上げてください”って。毎週お題が来て…」と苦笑。その期間は2年ほど。「あてどもない制作期間があって、私も疲れ果てて“もうソニー契約切ってくれないかな”って思った」ほどだったという。

 「どれだけ作ってもOKが出ない」日々の中、「会社的にも2年間リリースの無い歌手はしんどいから“最後の1枚を出しましょう”ってなって、『奇跡を望むなら...』をリリースすることが決まったんです。ただ“JUJUはバラードじゃない!”って変な頭があったんです、当時。(それでも)言い争う気力も残ってなくて、(プロデューサーが)“この曲だ、って言うなら、この曲で誠心誠意向き合います!”って」と決意したといい、結果的には2007年のUSEN年間総合チャートで1位を獲得するなど、大ヒットした。

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