【消えた天才】ノムさんが25年抱え続けた後悔 伝説の投手に初めて謝罪「俺が潰した」

[ 2018年1月3日 10:00 ]

1年目の伊藤智仁と握手する野村克也監督
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 “ノムさん”の愛称で親しまれ、プロ野球のヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任した野村克也氏(82)が、25年間抱え続けた後悔と謝罪を口にする。「俺が潰した。申し訳なかった」――。名将がプロ野球史上最高の天才と称した伊藤智仁(47)は、92年のドラフト会議で松井秀喜(4球団競合)に次ぐ3球団の競合を経て、ヤクルトに入団。1年目から獅子奮迅の活躍を見せ、一躍スターとなった。だが、デビューからわずか2か月半で右肘の靭帯を損傷し、表舞台からその姿を消した。その一因は野村氏の起用法にあった。

 野村氏と伊藤の物語は、野村氏がヤクルトの監督を務めていた92年のドラフト会議から始まる。当時、高校野球で一世を風靡した松井に注目が集まり、ヤクルトのスカウト陣も松井を指名する方向で一致。ところが、野村氏が直前に伊藤を推薦し、打ち合わせは紛糾。野村氏とスカウトの大喧嘩にまで発展したという。

 結局、野村氏の意見が通り、ヤクルトは伊藤を指名し獲得した。伊藤は野村氏の期待に応えるように1年目のシーズン序盤から大車輪の活躍。先発投手として2か月半で7勝を挙げ、セ・リーグ記録の1試合16奪三振も達成。その間の防御率は驚異の0・91だった。しかし、7月4日の巨人戦途中で右肘の靭帯を損傷。何とか試合は投げ切ったが、この年の登板はこれが最後となってしまった。伊藤の2か月半の投球数は1733球。現在の先発投手の平均1200球を大きく上回っており、当時、野村氏による酷使の影響があったとの批判も少なくなかった。

 伊藤のその後の野球人生は怪我との闘いとなる。肘だけでなく肩も痛め、手術を何度も行った。医師から「死に至る危険もある」と宣告を受けるほど怪我の影響は深刻だったという。復帰に向けて過酷なリハビリ生活を送ったが、ついにデビュー当時の輝きを取り戻せないまま2003年に現役を引退。“伝説”の投手のまま、マウンドに別れを告げた。

 あれから25年―。どうしても直接謝罪したいとの野村氏の思いから実現した2人の対談は、伊藤がリハビリ生活の大半を送ったヤクルトの2軍の本拠地・戸田球場で行われた。2人きりで話すのは初めて。25年の時を経て、それぞれの想いをぶつけ合う。3日放送のTBS「消えた天才 一流アスリートが勝てなかった人大追跡」(後6・00)ではその一部始終が放送される。

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2018年1月3日のニュース