冨田勲さん急死…シンセのパイオニア、日本人初グラミー候補

[ 2016年5月9日 05:30 ]

最近では初音ミクとコラボレーションした冨田勲さん。最後まで最先端の音楽を追求し続けた。ミクのフィギュアを持って

 NHK大河ドラマから手塚治虫氏のアニメまでを手掛けた作曲家で、シンセサイザー奏者の冨田勲(とみた・いさお)さんが5日午後2時51分、慢性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。84歳。東京都出身。1974年の「月の光」で日本人として初めて米グラミー賞にノミネート。マイケル・ジャクソンさんら大物歌手からも慕われた。葬儀・告別式は親族のみで行った。後日お別れ会を開く。

 所属レコード会社の日本コロムビアによると、冨田さんは5日昼ごろ、都内の自宅で倒れ、搬送先の病院で、長男で慶応大教授の勝氏ら家族が見守る中、息を引き取った。元々低血圧で立ちくらみのように意識が飛ぶことがあったといい、勝氏は「今回倒れた時も、徐々に意識が薄れていったと思われますので、本人はまた意識が戻るつもりでいると思います」と文書でコメントした。4月22日に84歳の誕生日を迎え、4人の孫と5人のひ孫に囲まれて祝ったばかりだったという。

 4年ぶりの新作となる交響曲「ドクター・コッペリウス」の制作を進めており、倒れる1時間前まで11月の上演会に向けた打ち合わせをしていた。勝氏によると「11月までは死ねなくなっちゃったよ」と笑って話していたという。

 冨田さんは慶応大2年だった1952年、作曲家デビュー。NHK大河ドラマ第1作「花の生涯」や名作映画「飢餓海峡」などの音楽を手掛けた。70年頃、シンセサイザーに出合い、最先端機器を駆使した作曲・演奏を始めた。管弦楽器など既存の楽器による曲作りに限界を感じていた時だった。74年、ドビュッシーの作品をシンセサイザーで編曲、演奏した「月の光」を発表。米ビルボード誌のクラシック部門で1位を獲得し、日本人として初めて米グラミー賞4部門で候補になった。その後も「火の鳥」「惑星」などのヒット作を生み、世界的に活躍。レーザー光線を用いた壮大なイベントをオーストリアや米ニューヨークで開催するなど、革新的な音楽で幅広いファンを集めた。

 冨田さんの音楽は世界のスーパースターも魅了した。マイケル・ジャクソンさんは87年に初来日した際、冨田さんの自宅兼スタジオを訪問。スティービー・ワンダー(65)は最も尊敬する音楽家として冨田さんの名前を挙げている。

 12年には宮沢賢治の世界がテーマの「イーハトーヴ交響曲」で、音声合成ソフト「初音ミク」を起用。晩年まで革新的な音楽に挑み続けた。

 ◆冨田 勲(とみた・いさお)1932年(昭7)4月22日、東京都生まれ。慶大在学中から作曲の仕事を始め、NHK大河ドラマは第1回作品「花の生涯」など5作を作曲。大阪万博(70年)、つくば科学万博(85年)など国際的イベントの企業パビリオンのテーマ曲などを担当。歌謡曲の作曲や童謡の編曲も行った。03年旭日小綬章。

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