【内田雅也の追球】「三本締め」と「万歳三唱」に思う先人の労苦 挑戦する勇気を

[ 2022年1月11日 08:00 ]

三本締めを行う西宮市の新成人たち(10日、甲子園球場)
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 西宮市の成人式『二十歳を祝うつどい』は試合開始を告げるようなサイレンで始まった。フィナーレは集まった新成人3945人による「三本締め」だった。大人の門出を祝うように、手拍子が銀傘にこだました。

 会場の甲子園球場らしさを少しでも出そうとする工夫が見える。同市成人式が甲子園球場で初めて行われたのは2020年だった。1995年から鳴尾浜の兵庫県立総合体育館で開催していたが、客席数が約2300と手狭だった。十分な観客席がある甲子園球場が「若者のためなら」とひと肌脱いだ格好だった。以来3年連続である。

 1年目は甲子園名物のジェット風船を全員で青空に飛ばしたが、新型コロナウイルス感染防止のため、昨年から三本締めとしている。

 「三本締め」で「万歳三唱」を連想したのは、この日1月10日が戦後、進駐軍の甲子園球場接収が部分解除となった日だからだ。1947(昭和22)年のことだった。グラウンドとスタンドが使えるようになった。

 後の甲子園球場長、川口永吉の『甲子園とともに』(丸和出版)によると、戦後の度重なる嘆願に<やっと色よい返事がもらえた>とある。<それとて“球場を貸してやる”と主客転倒の許可。それでも球場係員はグラウンドに出て万歳三唱をしたものだった>。

 終戦後の45年9月29日、武装した将校ら進駐軍が乗り込んできた。球場を兵舎とするため、接収するという。貴賓室は司令部、一塁側2階食堂はバー、1階食堂は売店となり、通路は兵士のベッドが並んだ。10月3日付で正式に接収となった。

 このため、46年に再開された中等野球(今の高校野球)全国大会は西宮球場を使った。プロ野球・阪神も使えず、西宮や後楽園で試合を行った。

 後の球団オーナー(電鉄本社社長・会長)、野田誠三は接収当時、甲子園球場の様子を見に行くと、食堂で鶏肉のクリーム煮を食べる光景を目にして「戦争に負けたとつくづく感じた」そうだ。阪神電鉄社史『輸送奉仕の五十年』にある座談会『甲子園の三十年』で語っている。自分は「寒々とした国民服」で「アルミニウムの弁当箱の中には豆めし」だった。

 先人の労苦を思えば、今は幸せである。西宮市長・石井登志郎の式辞「挑戦を続け、人生を豊かに」「挑戦する勇気を」のエールも銀傘に響いていた。 =敬称略=
 (編集委員)

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2022年1月11日のニュース