名将ラソーダさん死去 野茂氏「凄いショック 感謝してもしきれない」

[ 2021年1月10日 05:30 ]

2017年、記念撮影をするトミー・ラソーダ氏(右)とる野茂英雄氏
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 ドジャース監督を20年以上にわたり務めたトミー・ラソーダさんが7日夜に心臓発作のため死去したと、球団が8日(日本時間9日)に発表した。93歳。米国殿堂入りの存命者では最高齢だった。95年にメジャー1年目の野茂英雄を後押し。01年には近鉄の球団アドバイザーとして同年のリーグ優勝に尽力した。現在の日米野球界の橋渡し役ともいえる名将が、天国に旅立った。

 ラソーダさんは7日午後10時すぎに自宅で突然の心肺停止に見舞われた。病院に運ばれたが、そのまま帰らぬ人となった。昨年11月8日に心臓の病気で入院し、一時は集中治療室へ。快方に向かい、年明けに退院し自宅に戻った直後のことだった。

 「元気で退院されたと聞いていたので、凄いショックです。感謝してもしきれない方です」。95年デビュー当時の監督で、「我が息子」と受け入れてくれた恩師の訃報に、野茂英雄氏は球団アドバイザーを務めるパドレスを通じて追悼した。

 現役ではメジャー3シーズン、通算26試合で0勝に終わった無名の左投手。人望があるところを見込まれ、ド軍スカウト、傘下マイナー指導者などで経験を積んだ。76年9月にウォルター・オルストン監督の退任を受けて、コーチから監督に昇格。健康上の不安を理由に96年途中に退くまで、通算1599勝(1439敗)を挙げ、2度のワールドシリーズ制覇に導いた。97年の殿堂入りと同時に背番号2は球団の永久欠番に。昨年10月、ラソーダさんが優勝した88年以来32年ぶりの世界一を現地で見届け、天に召された。

 野茂1年目の快進撃を全面的に支え、日本のお茶の間でも愛きょうある笑顔や体形で愛される存在に。親日家で何度も来日した。79年の「米米野球」ではナ・リーグ選抜を指揮。01年には野茂の古巣・近鉄の球団アドバイザーを務めた。08年には日本球界の発展に寄与したとして「旭日小綬章」を授与された。長嶋茂雄さんや故星野仙一さんとも親交が深かったことでも知られる。現在の日米球界の橋渡し役として、両国に果たした役割は色あせることはない。

 48年にマイナードラフトで指名され入団してから、70年以上ド軍の一員として過ごした。「私にはドジャーブルーの血が流れている」という言葉は、チームスポーツである野球の根幹を指す名言。日米問わず多くの関係者に慕われる本物のレジェンドだった。

 ◆トミー・ラソーダ 1927年9月22日生まれ、米ペンシルベニア州出身。54年にブルックリン・ドジャースでメジャーデビュー。カンザスシティー・アスレチックスとの2球団で投手としてプレーし、通算成績は26試合で0勝4敗、防御率6・48。ド軍のスカウト、傘下マイナーの監督などを経て、76年9月にド軍監督に就任。96年途中まで指揮を執り、監督通算成績は3040試合で1599勝1439敗2分け。ワールドシリーズ優勝2度。97年に米国野球殿堂入り。00年シドニー五輪では野球米国代表の監督を務めて金メダルに輝いた。

 ▽1979年の米米野球 11月に開催された大リーグオールスターゲーム、ア・リーグ―ナ・リーグ(スポーツニッポン新聞社主催)のナ軍指揮官として来日。試合は最終第7戦までもつれたが、4勝2敗1分けの勝利に導き勝利監督賞を受賞した。最優秀投手賞はナックルを操るフィル・ニークロ(ブレーブス)で、昨年末に81歳で死去した。全日本と両リーグ連合軍が戦う日米球宴も2試合行われ、1勝1敗。ラソーダさんは阪神・島谷の8回逆転3ランで敗れた第2戦の指揮を執った。

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