気がつけば40年(6)江川卓が沢村賞に届かなかった「もう一つ」

[ 2020年8月6日 11:00 ]

江川の「今年こそ 誰にも言わせぬ もう一つ」の句を掲載した1983年1月3日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】巨人担当1年目の1982年暮れ、デスクから「1月3日付の1面を江川でつくってくれ」と言われた。江川に電話して予定を確認すると、正月は栃木県小山市の実家で過ごし3日に家族で米国旅行に出るという。2日はゴルフの予定。行けば何とかなりそうだ。デスクに「大丈夫です」と返事したら、車をつけてもらえることになった。

 ゴルフ場は正子夫人に教えてもらった。プライベートのラウンドについて回るのは気が引ける。コースに出る前に話を聞きたい。早朝4時半に高円寺のアパートに配車してもらった。後部座席で横になりながら宇都宮市の新里カントリー倶楽部へ着くと、他社はどこも来てなかった。

 ほどなくしてやってきた江川は「やっぱり来たのかよ」という顔をしながら「終わったら小山の実家に来ない?そこで話するから」と続けた。私はその前に原稿のメドを立てておきたい。「小山にはお邪魔させてもらうけど、プレー前に一句詠んでくれないかな」と頼んだ。

 入団3年目の1981年、多摩川自主トレに100キロ近い体で来て詠んだ「やせぬなら 夏まで待とう 江川ブタ」のような句である。江川は「暮れにラジオでしゃべったんだけど、いいかな?」と言ってすらすらと詠んでくれた。

 「今年こそ 誰にも言わせぬ もう一つ」

 完ぺきだ。

 1982年は「もう一つ」に尽きた。右肩を痛め、ラスト5試合は1勝4敗で19勝止まり。2年連続20勝を逃したばかりか、チームも中日に0・5ゲーム差で優勝をさらわれた。「1回は獲りたい」とこだわった沢村賞も「もう一つ」で届かなかった。

 沢村賞は読売新聞社が1947年に制定した賞で、プロ野球草創期の大エース、沢村栄治の功績を称えて先発完投型の本格派投手に与えられる。1988年まではセ・リーグだけが対象だった。

 選考は東京運動記者クラブの部長会に委嘱されてきたが、1981年に物議を醸した。20勝6敗、防御率2・29と圧倒的な成績を収めた江川ではなく18勝12敗、防御率2・58の西本聖が選ばれたのである。

 投票結果は西本16票、江川13票、白紙2票。「空白の一日」を衝いた巨人との電撃契約に端を発して大騒動に発展した入団時の経緯から江川を好ましく思っていない部長連が西本に入れたのだ。強い批判を浴びた部長会は選考を辞退するに至った。

 それ以降、受賞経験者による選考委員会で選考することになり、新方式初年度となった1982年は別所毅彦、杉下茂、金田正一、村山実、堀本律雄の5氏が選考委員に選ばれた。10月21日、東京・芝の東京グランドホテルで行われた選考委員会には所用で欠席した金田氏を除く4氏が出席。まず15勝以上した5投手が候補に挙げられた。

 北別府学(広島)20勝8敗1セーブ、防御率2・43
 江川卓(巨人)19勝12敗、防御率2・36
 都裕次郎(中日)16勝5敗、防御率3・14
 定岡正二(巨人)15勝6敗、防御率3・29
 西本聖(巨人)15勝10敗1セーブ、防御率2・58

 この中から最終的に北別府、江川の2人に絞られた。北別府に有利な数字は勝利数に加えて負け数(北別府8、江川12)と被本塁打数(北別府22、江川36)。江川は防御率の他に完投数(江川24、北別府19)、完封勝利(江川6、北別府5)、奪三振数(江川196、北別府184)で上回った。

 どちらが選ばれてもおかしくなかったが、最後は「沢村賞のイメージを高めるには最低20勝投手じゃないといけない」とする声が支配し、北別府に軍配が上がった。江川が「もう一つ」勝って20勝で北別府に並び、巨人が優勝していれば、その貢献度も加味されて選ばれていたに違いない。

 沢村賞を逃した悔しさもにじませた「今年こそ…」の句。傑作だ。ペンはスムーズに原稿用紙を走った。江川がラウンドしている間に書き上げ、ゴルフ場のファクスを借りて送信。デスクのOKももらった。

 うつらうつらしていると江川が上がってきた。「ごめん。実家は人が来ることになってさ。悪いけど、ここで話するよ」。そう言われたが、もう原稿は出し終わっている。

 必要ないけど、軽い気持ちで「どう?カリフォルニアあたりの土地を買うってのは」と振った。ちょうど日本人の米西海岸への不動産投資が話題になっていた。すると――。

 「無理だよ。日本がやっと決まったばかりなんだから」

 えっ、決まったの?!

 江川が新居用の土地を探しているという話があり、噂された都内某所を一日中歩いたことがある。当時の江川は滑っても転んでも記事になった。

 「どこ?」

 東京23区内と思っていたら、意外や横浜市緑区(現青葉区)だった。翌3日付1面の大見出しは「横浜へ“移籍”江川」。正月早々ゴルフ場まで足を運んだ私に江川がくれたお年玉だった。

 しかし、「今年こそ…」のシーズンを見届けることはできなかった。1面をつくった数日後、私は西武担当を命じられたのである。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍で活動していない。

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