【タテジマへの道】岩崎優編<上>水泳漬けだった小学生時代

[ 2020年4月27日 15:00 ]

94年7月、大好きなウルトラマンになりきってポーズする3歳の岩崎優

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。第8回は13年ドラフトで6位指名された岩崎優編を、2日連続で配信する。

 担当の中尾孝義スカウトはきっぱりと言った。「まさか6位で残っているとは思わなかった」。中央球界では無名の優も、その実力は折り紙付きだ。手元で伸びる最速144キロの直球と多彩な変化球を武器に、今、甲子園の大舞台に殴り込みをかけようとしている。

 出産予定日より10日早く、産声を上げた。体重は3600グラムを超え母・恭子さん(50)は「保育器が小さくて…。よく足を投げ出していました」と笑う。3歳の頃には2つ上の兄・甫(はじめ)さんと身長はほぼ同じ。少しやんちゃな保育園児は、ウルトラマンが大好き。その一方、お遊戯が嫌いだった。運動会でも一人だけ輪に入らず。だが最後のリレーに演目が移ると、急に鉢巻きを締めてやる気を出した。心配した恭子さんに園長さんが言った。

 「大丈夫ですよ。こういう子は出世します」

 当時から「投げること」が大好き。どこへ行っても足もとの石を拾い、投げまくった。生粋の“鉄腕”。あるとき、キャンプ場でいつものように池に向かって投げていると、そこには素潜りをしていた甫さんが。顔に命中してしまい、周囲をヒヤリとさせた。大事には至らなかったことが不幸中の幸い。自慢の制球力はこのときから健在だった、ということか。

 野球を始めたのは、清水第四中に入学してからだ。不二見小時代は、ボールを握らなかった。父・久志さん(51)が「変なクセがつくとダメだから、小学生では野球をさせない」という方針。不二見小の水泳部に入り、徹底的に肩回りを鍛えた。得意は平泳ぎ。「ずっと野球はやりたかったんですけど、体は鍛えられた」と優は当時を振り返る。小3年時の文集で「プロになりたい」を明記していたほど。だが6年間みっちり泳いだおかげで体は強くなり、土台が築き上げられた。

 中学で軟式野球部に入ると、水を得た魚のように白球を追った。「やりたかったことができる」。皆が嫌がる厳しい練習も喜んで取り組んだ。学校の宿題や提出物も遅れたことは一度もない。その名の通り、「優」がつく生活態度だった。

 目立った成績は残せなかった。3年間で静岡県大会すら行けず。それでも優の「プロ」への意識は不変だ。誘いを受けた清水東へ進学。しかし甲子園への道は険しかった。3年夏は2回戦でライバル校の清水商に1―2の惜敗。目指していた場所は遠かった。恭子さんは「大学でももちろん野球を続けてほしかった。やれるところまでやってほしい」。そんな優に、熱い視線を送る一人の男性がいた。 (13年11月12日付掲載、あすに続く)

 ◆岩崎 優(いわざき・すぐる)1991年(平3)6月19日、静岡県生まれの22歳。清水東では甲子園出場はなし。国士舘大では東都大学リーグ2部ながら3年秋に防御率2位の0・94をマーク。4年春も同3位の1・60を記録した。13年ドラフト6位で阪神入団。1メートル84、81キロ。左投げ左打ち。

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