【内田雅也の猛虎監督列伝~<8>第8代・岸一郎】無名の「過去の人」まさかの監督 オーナーの一方的人事

[ 2020年4月27日 08:00 ]

阪神・岸一郎監督と藤村富美男助監督(1955年)=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 松木謙治郎は監督を退く1954(昭和29)年シーズン中、球団代表・田中義一から後任の適任者を聞かれ、助監督(選手兼任)の藤村富美男を推薦した。退団を前に甲子園の中華料理店で会った選手たちが「藤村の欠点を指摘」したと『戦後プロ野球史発掘』(恒文社)で語っている。「選手の足を引っ張る。自分がお山の大将でいたい」と相次いで批判した。

 若手に人気があったのは2軍監督の御園生崇男だったという。田中自身も関大後輩にあたる御園生を立てたい思いもあった。本紙に「関大タイガース」との悪罵(あくば)もあったとある。

 大映監督・藤本定義や元監督・石本秀一などがうわさにあがるなか、新監督は未定のまま時間が過ぎた。11月20日、秋のオープン戦(セ・パ5強集結戦)が開催された大阪球場で松木は「外部から迎え入れようとの動きがあるようだ。はなはだ不快だ」と語った。

 新監督発表は24日、大阪・梅田の電鉄本社で行われた。名前は岸一郎。59歳。本紙にプロ野球記者の草分け、共同通信・石崎竜の解説があり<よわい還暦に近く、すでに過去の人><世間の意表を突いた><率直に言って意外な人事>とある。

 水面下で動いていたのはオーナー(本社社長)の野田誠三だった。19日、田中に「岸一郎でどうや」と持ちかけ、東京で接触。22日、契約調印をすませた。野田が独断で決めた監督人事だった。

 岸は松木と同じ福井・敦賀の出身で14歳年長。地元を離れ、東京・早稲田中に進学。早大では左腕投手として佐伯達夫、市岡忠男らとともに極東五輪で優勝。満州に渡り満鉄で野球を続け、神戸高商(現神戸大)監督も務めた。終戦後、故郷の敦賀に帰っていた。プロ野球経験はなく、野球の現場に立つのも30年ぶりだった。

 岸は野田や松木に野球論を書いた手紙を送り、野田が内容に感心したとも伝わる。マネジャーだった奥井成一は週刊ベースボールに寄せた『わが40年の告白』で<岸さんが満鉄にいた関係で、鉄道省あたりから押しつけられ、断り切れなかったのでは>とみていた。

 迎えた55年正月、奥井が宝塚の田中宅へ年始のあいさつに出向くと「ところで奥井、岸監督でうまくいくかね」と問われた。「藤村さんと御園生さんを監督がどう扱っていくか。2人がどこまで協力するかにかかっていると思います」
 不安は的中した。なぜか自信満々の岸は就任後「若手をどしどし使っていきたい。当たらなければ藤村でも休ませる」とぶち上げた。この談話がベテランの心を逆なでした。反発を呼び、主力のなかには岸を「おっさん」「ど素人」と呼ぶ者がいた。コーチや選手は監督から離れていった。

 開幕3戦目、4月7日の大洋戦(沼津)では同点の7回表、2死から藤村が四球で出ると、岸は代走を告げた。控え捕手の山本哲也が一塁に行くと、藤村は「何しに来た。帰れ」と追い返した。すでに交代は告げられていたため、藤村は渋々下がったが、内情を公表するような光景だった。

 5月19日、後楽園でダブルヘッダーを終えた時点で16勝17敗と借金1。だが巨人相手に1勝9敗という状態に本社内でも監督批判が出た。
 移動日をはさみ21日、名古屋駅前の旅館「香取」で田中は全選手に岸の休養、藤村の代理監督を告げた。岸の姿はなかった。奥井によると休養理由は「痔(じ)の手術」だが、治療した形跡はない。岸はおいが住職の東京・世田谷の寺に身を寄せ、表舞台から消えた。

 批判が多かった岸の采配だが、チームが新旧交代期にあったことは確かだ。先発陣を西村一孔(19歳)、大崎三男(22歳)、小山正明(20歳)、渡辺省三(22歳)らで形成し、藤村でも先発から外す大胆な若手登用は方針としては一理あった。

 奥井が<選手にもずいぶん非があった>とする一方、問題視したのはやはり<本社の一方的な人事>だった。球団を無視した、本社の押しつけ体質はこの後幾度も「お家騒動」を呼んだ。=敬称略=(編集委員)

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