野球殿堂入り田淵幸一が西武の監督にならなかった理由

[ 2020年1月16日 15:50 ]

<2020野球殿堂入り通知式>記念撮影を行う(前列左から)田淵幸一氏、斉藤惇・理事長、故・前田祐吉氏のご子息・大介氏、故・石井連藏氏のご子息・拓藏氏、(後列左から)山中正竹・法友野球倶楽部会長、大久保秀昭・慶大野球部前監督、小宮山悟・早大野球部監督 (撮影・西川祐介)
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】晴れの野球殿堂通知式。ひな壇の横にはタテジマの写真が掲示されていた。

 複数球団に在籍した表彰者は、どれかひとつユニホームを選ばなくてはならない。田淵は阪神時代のユニホーム姿を選択したのである。

 選手として阪神で10年、西武で6年プレー。放った本塁打は阪神の320本に対し、西武は154本。在籍年数と本塁打数を比べれば、断然阪神である。

 しかし、阪神は石もて追われた球団だ。球団史上初の最下位に沈んだ1978年オフ、日付が11月15日に変わった深夜だった。西宮市神垣町にあった自宅マンションの電話が鳴った。

 「すぐ来てほしい。小津(正次郎)社長から話がある」

 着替えて指定された大阪・梅田のホテル阪神に着いたのは午前2時前だった。

 「一度外の空気を吸ってこい」

 非常識な深夜の呼び出し。察しはついていた。クラウンライターライオンズを買収した西武へのトレード通告だった。

 田淵はこの年、38本塁打を放ったが、後藤次男に代わって就任したドン・ブレーザー新監督の構想に入っていなかったらしい。

 阪神から田淵と古沢憲司、西武から竹之内雅史、若菜嘉晴、真弓明信、竹田和史の2対4の交換トレードが成立し、埼玉・所沢の新天地へ。

 田淵は新生ライオンズの顔となり、西武4年目の1982年、新監督の広岡達朗とぶつかりながら初めて優勝の美酒を味わう。

 翌1983年は7月13日の近鉄戦(日生)で死球を受け、左手尺骨を骨折するまで29本と本塁打を量産。復帰まで2カ月以上かかったが、巨人との日本シリーズにはぎりぎり間に合った。

 巨人の誇る江川卓、西本聖の両エースからホームランを放ち、逆転に次ぐ逆転の死闘シリーズ制覇に貢献。2年連続日本一に輝いた西武の象徴として正力松太郎賞に選出された。

 阪神時代には味わえかった優勝と栄誉。現役最終年の1984年10月31日、田淵は生涯最後となる通算474号を放ったバットを携えて東京・原宿の国土計画本社を訪れ、堤義明オーナーに引退を報告した。

 「早めに引退、早めに評論家になって、ベストコンディションでチームに戻ってきたら…。ま、なるべく早くユニホームを着て下さい」

 西武王国総帥の言葉はまぎれもなく監督の約束手形だった。しかし…。

 風向きが変わったのは1年後だった。田淵がTBS解説者、スポーツニッポン評論家になった1985年の日本シリーズは西武と阪神の対戦となった。

 古巣同士の対決。阪神は追い出された球団ではあるが、掛布雅之をはじめ後輩や熱狂的なファンには愛着がある。田淵は素直な気持ちを電波に乗せ、活字にした。

 「どっちにも勝ってほしい」

 この言葉が堤の逆鱗に触れた。

 「どっちにも?田淵は西武で育った人間じゃないのか」

 というわけである。

 阪神に2勝4敗で敗れた日本シリーズ終了後。広岡の退団が決まった。表向きは健康上の理由による辞任という形を取ったが、チーム編成権の所在を巡る対立が原因だった。

 広岡退団を受けて球団幹部は後任候補に田淵を挙げたが、堤は首を縦に振らなかった。

 「広岡と一緒にやっていたのがいるだろう」

 1982年から3年間広岡の懐刀としてコーチを務めた森祇晶である。3位に沈んだ1984年オフ、V逸の責任を取ってユニホームを脱いでいた。堤はその森を指名したのである。

 西武は森監督の下で1986年から3年連続日本一。そして「西武・田淵監督」が完全に消滅する事件が起きる。

 1989年9月23日の西武―ロッテ戦(西武)だった。平沼定晴の投球を左肘に受けた清原和博が激高し、バットを平沼に向けて投げつけたのである。

 子の試合を中継していたTBSテレビの放送ブースでこのシーンを目撃した田淵は、マイクに向かって清原の行為を厳しく批判した。

 「バットを投げつけるなんて論外です。プロ野球人として恥ずかしい行為。もし平沼が失明でもしたらどうなるのか?」

 清原を寵愛する堤にとっては、これが決定打になったのである。

 空気を察した田淵は1990年、流通王の中内功に誘いを受けて福岡移転2年目を迎えるダイエー(現ソフトバンク)の監督に就任。6位、5位、4位とひとつずつ順位を上げながらAクラスはならず、3年契約を全うして退任した。

 その後は大親友の星野仙一をサポートする役に回り、2002年、星野監督の下、チーフ打撃コーチとして阪神に復帰する。

 「うねり打法」で打線を強化し、2003年の優勝に貢献。タテジマで初めて優勝を味わった。

 引退時の既定路線通り西武の監督になっていたら、ありえなかった感激かもしれない。

 堤にプレゼントした通算474号の記念バットは数年前、田淵の手元に戻され、現在は甲子園球場にある甲子園歴史館に展示されている。=敬称略=(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年生まれ。岡山市出身。82年の巨人担当を皮切りに野球記者歴38年。83、84年に西武を担当した。

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