元スポニチ本紙記者語るバッキー獲得秘話 ハワイで見た速球とナックル「これは使える」

[ 2019年9月16日 08:30 ]

1962年7月18日、阪神入団テストを受けるためめ、羽田空港に降り立ったバッキー。有本義明さん(背中)の出迎えに笑顔を浮かべる=有本さん提供=
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 阪神で通算100勝を挙げたジーン・バッキー氏が14日午前10時43分(日本時間15日午前0時43分)、腹部大動脈瘤(りゅう)手術後の合併症のため米ルイジアナ州ラファイエットの病院で死去した。82歳だった。阪神入団に関わった元スポニチ本紙記者、有本義明氏(88)が秘話を語った。

 スポニチ東京本社でアマチュア野球担当だった1962年6月、ハワイに渡った。全日本大学選手権で優勝した法大が初の日米大学選手権(72年創設の同名大会とは異なる)を米国代表ミシガン大と争う。当時珍しい海外特派の指示が下った。

 出国前、阪神から「ハワイにいる投手を見てほしい」と内々に依頼を受けた。それがバッキーだった。

 当時阪神監督の藤本定義さんとは奇妙な縁があった。47年9月、神戸・岡本の自宅が火事になった。近所にいた藤本さん(当時太陽監督)が真田、スタルヒンら選手と駆けつけ、火を消し、家具を運び出してくれた。以来、親交があり、スカウトの佐川直行さんを含め、有楽町でよく酒食をともにしていた。

 阪神に売り込んだのは日系人チーム・ハワイ朝日軍のエンゼル・マエハラ代表だった。バッキーはハワイ・アイランダースを解雇され、朝日軍にいた。阪神には若林忠志、与儀真助ら戦前戦後とハワイ出身が多くいた。

 シーズン中で当時は遠い異国。どんな投手か分からない。私の出張を耳にした藤本さんも、ちょうどいいと思い立ったのだろう。佐川さんは「投手は前後左右、四方から見るべき」と指示をくれた。

 場所はオアフ島の公園と言うか空き地。バッキーの投球を40球ほど見た。朝日軍のマサ・シンタニは捕れなかった。長身からの速球にナックルボールがおかしな変化をした。一人では自信がない。同行願った法大・田丸仁監督と「これは使える」と意見一致した。

 阪神に「キワメテロウホウ」(極めて朗報)と電報を打った。本人も4月に結婚したばかりで、ぜひ日本で働きたいという。先に帰国し幸運を祈った。

 阪神はバッキーを呼び寄せた。特ダネだが阪神との約束で記事にはしなかった。来日は7月18日。羽田空港で出迎え、再会を喜び合った。テストを受け晴れて入団となった。

 63年には甲子園の文化住宅も訪ねた。1年で2人の赤ちゃんが産まれ、幸せそうに暮らしていた。(談=元スポニチ特別編集委員)

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