平石なら楽天を変えられる PL同期生が“高い人間力”証言

[ 2018年7月3日 11:30 ]

98年夏の甲子園準々決勝、11回に同点の生還を果たしたPL学園・平石(左)と横浜・松坂
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 【BALL PARK】同期の星だ。楽天は辞任した梨田昌孝前監督(64)の後を受け、平石洋介ヘッド兼打撃コーチ(38)が監督代行となった。借金20での交代劇だったが、ここまで6勝4敗と奮闘している。いわゆる「松坂世代」でプロの指揮官になるのは初。98年夏の甲子園で、その松坂擁する横浜と死闘を繰り広げたPL学園の同期生が、当時の主将に熱いエールを送った。 (構成・鈴木 勝巳)

 あれから20年の歳月が流れた。酷暑の甲子園。一緒に死闘を戦い抜いた。主将としてチームをけん引してくれた。そんな男が今、指揮官としてユニホームを着ている。厚い信頼を寄せる仲間は、それがうれしくて仕方ない。

 「小、中、高、大学と主将を務めたキャプテンシーと責任感。チームが苦しい時ほど頼りになる存在、男だった」。そう訴えるのは、当時エースだった上重聡さん(日本テレビアナウンサー)。「まさかこんなにも早く、中、高と同じチームで野球をした仲間、親友が指揮することに驚いている」。そう話す一方で「平石洋介という男なら、納得です。25年の付き合いになる私が自信を持って保証します」と続けた。

 延長17回を戦った横浜との準々決勝。当時の平石主将は三塁ベースコーチを務め、8回に代打で途中出場した。上重さんの記憶に焼き付いているのが「三塁コーチとして松坂攻略のヒントを見つけた鋭い洞察力」だという。打線は平成の怪物から11安打で7得点。プロの世界を経て、磨き上げられた野球眼を武器に「必ずやチームをいい方向に導いてくれると信じている」と大きな期待を寄せた。

 横浜戦で4番を打った古畑和彦さん(神宮球場販売部主任)も、平石監督代行の卓越した人間力を称える。「彼が監督代行になったのは誇り。これから平石の凄さが分かってくると思う」。当時、平石監督代行は肘を手術し、レギュラーから外れていた。それでも選手投票では満場一致で主将に。古畑さんは「本当に人望、頼りがいがあった。PL学園には凄い選手が集まっていたけど“主将・平石”という存在は際立っていた」と回想する。

 同期の誇り。まさに“半端ない”存在感を誇った平石監督代行を、仲間は純粋な思いで支える。古畑さんは「(初勝利の際は)おめでとう、とLINEをした。同期でも“平石を応援していこう”と話をした」という。

 当時の5番打者で近鉄などでプレーした大西宏明さん(大阪市内で焼き肉店「笑ぎゅう」経営)は「“大丈夫。あなたならできるよ”と連絡を入れた」と話す。返事は「腹をくくってやる」だった。「PL学園歴代でも屈指といわれる主将。強烈なリーダーシップもセンス、素質の一つ。ずばぬけていた」と人間力にほれ込む大西さん。自身は新たに独立リーグ、ベースボールファーストリーグに参入する堺の監督就任が決まり、指揮官として競い合うことになった。

 平石監督代行が率いて以降、楽天は6勝4敗と奮闘。ここからさらに、チームを変えてくれる。そう信じられる。平石洋介という男には、それだけの魅力がある。

 ◆平石 洋介(ひらいし・ようすけ)1980年(昭55)4月23日生まれ、大分県出身の38歳。PL学園、同大、トヨタ自動車を経て04年ドラフト7巡目で楽天入団。11年に引退し、通算成績は122試合で打率・215、1本塁打、10打点、4盗塁。12年からは楽天のコーチとなり16、17年は2軍監督も務めた。1メートル75、75キロ、左投げ左打ち。

 ☆98年夏の甲子園のPL学園VS横浜 序盤にPL学園がリードを奪うも、5回には4―4の同点に。両校1点ずつを加えて延長戦に入り、11回は横浜が柴の適時打で勝ち越すと、PL学園は安打で出た平石を大西が還して追いついた。16回も1点を取り合い17回へ。横浜は常盤が勝ち越し2ランを放ち、9―7で3時間37分の激闘を制した。横浜・松坂は17イニングを13安打7失点、250球で完投。PL学園は7回から救援した上重が11イニング、145球を投げた。

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