金沢・中野、振り払った“完全男”の重圧 史上2人目快挙の肩書「邪魔だった」

[ 2018年2月28日 10:00 ]

第66回選抜大会1回戦   金沢3―0江の川 ( 1994年3月26日    甲子園 )

94年の第66回大会、江の川戦で史上2人目の完全試合を達成した中野
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 【センバツ群像今ありて〜第1章〜(6)】 甲子園大会で春の2度しかないのが完全試合だ。1人の走者も出さず27アウトを取る大記録。金沢(石川)の中野真博投手は1994年の第66回大会1回戦、江の川(島根=現石見智翠館)戦で16年ぶり2人目の達成者となった。青学大、社会人野球・東芝と野球を続けた右腕。快挙と、その後の日々を振り返った。 (松井 いつき)

 開幕日の第3試合、観客席は1万5000人と少し寂しくなっていた。その中で、走者を1人も出さず中野がアウトを重ねる。7回、8回も終えた。淡々と、テンポ良く。9回先頭は一ゴロ、2人目は遊ゴロだった。

 「私より野手の方が緊張していたんじゃないかな。後で映像も見たりしたけど、ショートの同級生、畠中はガチガチでしたね」

 中野はそう思い出して笑う。99球目を打たせ、この試合17個目の内野ゴロが畠中の前に飛んだ。アウト。左腕で一つガッツポーズをつくった。最速135キロでもコーナーにびしびし決まった直球と、ほぼ変わらない速さで曲がるスライダーで大記録を打ち立てた。

 1年秋からエース。2年時はセンバツ1回戦で敗れ、夏を狙う中で忘れられない出来事があった。「僕は練習を苦に思わない方で楽しそうにやっちゃう。そうしたら3年生に“甲子園行きたいんだよ!真面目に練習しろ”と胸ぐらをつかまれて。ちゃんと練習している自負はあった。甲子園連れていくよ、と思っていた」。静かな闘志で全国へ。再び初戦で散ったが、自分を叱った3年生が「ありがとう!あの時は悪かった!」と号泣する姿がネット越しに見えた。

 「それまで自分のためには練習していたけれど、初めて、先輩の思いを背負わなければと思った」。快投を続けて、3季連続の聖地に乗り込んだ。「勝ちたくて仕方なかった」。そして、その腕で甲子園を驚かせた。

 歴史的快挙は新聞の1面をジャック。本紙は星稜・松井の2年後に現れた新星に「北陸の新怪童」と見出しを付けた。一方、中野に勝った喜び以上の実感はない。「付録って感じでした」。だから、周囲の目に戸惑い続けることになった。

 「僕だけクローズアップされるのが嫌で。この結果があって大学にも行けたけれど、“調子乗るな”と本当によく言われた。完全試合のことを言われるのが正直、嫌でした」

 青学大、東芝と進んでも「完全試合の中野」が離れなかった。注目されるのは過去ばかり。中野はプロ入りが目標だった。肩書で行ける世界ではない。「邪魔だった。今を見てくれと思っていた」という。

 社会人で1年、2年、3年…。プロへの扉は開かなかった。「結果を出していないのにチームに残してもらえる意味はなんだろう」と考えるようになった。先輩の涙に奮い立ち、甲子園で勝つことだけを目指したあの頃。その結果の快挙――。「記録を受け入れたら、もっと野球がうまくなるかな」と思った。

 東芝9年目、07年の練習試合でとっさに打球を止めようと右足を出して骨折した。「いつクビと言われるか分からない。練習試合なのにバカだなあとか言われたけれど、ただ目の前のアウトを取りたかった」。全治半年の重傷から不屈の魂で復活。翌年、日産自動車に補強されて初めて都市対抗で投げた。

 09年に引退し、投手コーチに就任。チームには駒大苫小牧で夏の甲子園を連覇、サイクル安打も記録した林裕也がいた。過去が先行する、自分と似た存在に「受け止めたら楽になるよ」と助言した。

 「そう言えて、考え方が変わったんだなと思った。自慢っぽくて嫌だったのに」

 昨年限りで野球部を離れた。東芝が経営再建を進める中での社業専念。その意味にも向き合いながら、今は年下の先輩について懸命に仕事を覚える。「順番抜かしは好きじゃない。階段を上がっていくように、オープン戦とか日々の練習が一番大切なんです」。あの快挙があってもなくても変わらない、高校時代からの思いだ。 =敬称略=

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