【センバツの記憶1985年・後編】準決勝で清原を泣かせ、決勝では本塁打を放ち初出場初V導いた渡辺智男

[ 2022年3月16日 20:30 ]

1985年、帝京―伊野商の6回二死一塁、渡辺智男は右越えに今大会2本目のホームランを放ち、一塁ベースを回りガッツポーズ
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 センバツ伝説の名勝負がある。1985年第57回大会準決勝のPL学園(大阪)対伊野商(高知)超高校級の大砲・清原和博(後に西武)エース桑田真澄(後に巨人)を擁し優勝候補大本命といわれたPL学園が無名の右腕に屈した一戦だ。PL学園・桑田と伊野商の渡辺智男(後に西武)の先発で始まった試合は桑田が初回に2点を失うなど伊野商ペースで進んだ。1年生の夏から3大会で決勝に進み甲子園通算7本塁打のPL学園の4番は同大会も好調。準々決勝まで11打数5安打1本塁打と存在感を示していた。清原に挑んだのは中央球界でほとんど知られていなかった銀縁眼鏡の投手・渡辺だった。2回快速球で三振を奪うと4回にも空振り三振。2点差の8回2死一塁にはMAX146キロの剛速球で見逃し三振。怪物を打ち倒した。スタンドまでも沈黙させた大金星。その裏には渡辺と2年生捕手の間で練った秘策があった。前編と後編でおくるセンバツ伝説の名勝負――。

~第1打席、第2打席も3―2から「空振り」~

 4回無死一塁の2度目の対決。「全部狙ったのが外れていた。自分で勝手にプレッシャーを感じていた」と3ボール。2球続けて直球でストライクを取り、フルカウント。渡辺はまた首を振り、もう一度サインをのぞき込んでから腕を振った。外を狙った直球がうなりをあげて真ん中高めへ。危険なコースだったが清原のバットはまた空を切った。

 6回、3度目の対決は「警戒したわけではなく勝負にいって外れた。あんなバッターだからストライクを取りに行っちゃいけない」とストレートの四球。その直後、渡辺は桑田を中飛に打ち取った。試合は伊野商リードのまま終盤に入った。

~勝負の第3打席 3球で見逃し三振  清原悔し泣き~

 怪物VS無名剛腕。クライマックスは8回に訪れた。2死からPL学園の3番・安本が左前打。打席には清原。1発出れば同点だ。初球は真ん中低め、ボール気味のカーブを清原が空振りした。2球目は外角高めの141キロ直球。また空振り。渡辺は腰を折りながら柳野のサインをのぞき込んだ。今度は首を振らずに目配せで、もう一度サインを要求した。投じた直球は糸を引くように外角に構えた柳野のミットに吸い込まれた。146キロ。清原は手が出ない。見逃し三振。悔しそうにバットをグラウンドに振り下ろした。甲子園での3三振は83年夏、水野雄仁(池田)に喫して以来(4三振)の屈辱だった。怪物の目は腫れていた。「打ちたかった。夏はまた優勝を目指して甲子園に来たい。自分を常に追い込む立場にもっていって練習して、本番でも追い込まれたときに打てるようにしたい」。試合後、大阪・羽曳野に向かうバスの中、中村順司監督は「上には上がいるのを思い知ったか。もう一度ビデオを見直そう」といった。寮に到着した清原は室内練習場で悔しさを振り払うようにバットを振った。大舞台で再び頂点に立つためのスタートだった。

~決勝は自らのホームランで帝京撃破 初出場初優勝~

 渡辺は翌7日、帝京(東京)との決勝戦で自らホームランを打ち、初出場初優勝の偉業を成し遂げている。

 「PLは凄いチームだった。結果的に勝っただけであって総合的な部分では優勝してもおかしくないチーム。たまたまウチが勝っただけ。力の差は雲泥の差。田舎の仲間が桑田から3点取ってくれたから勝てたんです」

 清原から3年遅れでプロ入り。ライバルが再会したのは時代が昭和から平成に変わった直後の89年1月の自主トレ。西武の若獅子寮だった。「玄関に入ったところにキヨが出てきた。キヨと一緒に2人で飲んだりしても、センバツの話はほとんどしていない。夏出なくてよかった。勝ち逃げでよかった」と懐かしそうに笑う。渡辺の夏は高知大会決勝で高知商に敗退。清原は本大会準々決勝で高知商・中山から特大アーチを放って深紅の大旗を再び手にした。バブルが始まろうとしていた昭和の春、銀縁眼鏡の無名剛腕と甲子園最強スラッガーの名勝負はセンバツ伝説として語り継がれている。

~西武で再会 プロのライバル対決は9打数3安打~

 〇…渡辺智男は85年ドラフト前に社会人NTT四国入りを表明。プロ入りはソウル五輪で銀メダルを獲得した直後の88年ドラフト、西武に1位指名された。巨人・桑田とプロで投げ合ったのは1度だけ。90年の日本シリーズ第3戦、ともに先発し、プロ2年目の渡辺がシリーズ初登板で初完封勝利を挙げ、センバツ準決勝に続いて投げ勝った。清原との再戦は93年オフに渡辺がダイエー(現ソフトバンク)に移籍した翌年、94年シーズン。初対戦となった4月14日は清原が2打数1安打。同年は6打数3安打、1本塁打で清原が打ち勝った。翌95年は3打数0安打で渡辺が投げ勝っている。

~届かなかった紫紺の大旗 KKは84年春も決勝敗退~

 清原&桑田は84年春も決勝で初出場校に敗れている。相手は東京の岩倉。チームもエース山口重幸(後に阪神)も全国的な知名度は低かった。

 この大会、清原は絶好調だった。1回戦の砂川北(現砂川=北海道)戦では4打数3安打4打点1本塁打。2回戦の京都西(現京都外大西)戦では4打数4安打4打点2本塁打など準決勝まで打率・533、8打点、3本塁打。桑田も投打で活躍。チームは準決勝、都城戦、相手の落球でサヨナラ勝ち。81、82年春、83年夏と続いてきた甲子園での連勝を20に伸ばし夏春連覇に死角はないと思われた。
 横綱PL学園に挑んだ岩倉は1回戦から接戦を勝ち抜き準決勝を菅沢のサヨナラホームランで制し決勝に駒を進めた。

 運命の決勝。7回まで0行進。8回、先頭打者が四球で出塁すると、PL・中村監督は清原に送りバントを命じた。バントは成功するが無得点。その裏、桑田がピンチを招く。2死一、二塁で菅沢に右前適時打を許し均衡が破れた。終わってみればPLは初回、3番・鈴木の安打1本だけで零封負け。桑田は毎回の14奪三振。KKにとって春の風はいつも冷たかった。
(スポニチアーカイブス2012年3月号掲載)

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