同郷・同年代、交錯した青春 和歌山で西本幸雄・嶋清一生誕100年展 7日から

[ 2020年10月6日 15:00 ]

「西本幸雄・嶋清一生誕100年展」ポスター
Photo By 提供写真

 【内田雅也の広角追球】『西本幸雄・嶋清一生誕100年展――不屈の闘将と戦火に散った伝説の大投手』が7日から和歌山市のわかやまスポーツ伝承館で始まる。阪急、近鉄をともに球団創設初優勝に導いた西本幸雄氏と夏の甲子園大会で全5試合を完封した嶋清一氏は、ともに1920(大正9)年、和歌山市生まれ。野球殿堂入りも果たしている2人の足跡を多彩な展示品でたどる。11月16日まで。

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 展示品は遺品や記念品、写真などで計約80点にのぼる。西本氏が着用した阪急、近鉄監督時代のユニホーム、嶋氏の夏の甲子園大会での勝利記念ボールや優勝旗(レプリカ)、2人の野球殿堂レリーフ(レプリカ)、当時のデザインや色を再現した和歌山中(現・桐蔭高)、海草中(現・向陽高)ユニホーム、西本氏が近鉄監督時代、応援団が作成したかぶり物もある。

 写真は遺族や西本氏が通算32年間、評論家を務めたスポーツニッポン新聞社からも提供した。貴重な写真から、2人の生いたちがたどれる。

 わかやまスポーツ伝承館の館長・江川哲二さん(57)によると、今回の企画展を思い立ったのは今年1月、同館スタッフから西本氏と嶋氏がともに1920(大正9)年生まれの同い年だと聞いた。

 「まさか同い年だと知らず、驚きました。しかも、ちょうど生誕100年にあたる。和歌山の偉大な野球人のお二人で何かやるべきだと構想を練っていたのですが……」

 春先から新型コロナウイルス感染拡大で白紙に戻った。同館は4月下旬から、休館を余儀なくされた。

 臨時休館中の西本氏の誕生日4月25日、1人の高齢男性が訪ねてきたと隣の施設関係者から聞かされた。男性は「西本幸雄さん生誕100年の日ですから、ここに来れば何か展示をしているのではないかと思いまして」と残念がったそうだ。

 「この話を聞いて、これは絶対に生誕100年展を開かねばならないとスタッフ一同、奮い立ちました」

 5月中旬、営業を再開。両氏の遺族や母校の桐蔭高、向陽高、甲子園歴史館、野球殿堂博物館などをあたり、品物を集め始めた。

 同い年だが、西本氏の和歌山中入学は1933(昭和8)年、嶋氏は高等小学校を経由しており海草中入学は1935(昭和10)年と2年違う。

 左投げ左打ちの二塁手だった西本氏は生前「通常は4番を打っていたが、嶋の海草とやるときは下位に落とされた。何しろ嶋はからっきし打てなかった」と話していた。当時、和中には左投げの部員は西本氏しかおらず、海草中との対戦前には打撃投手としてずいぶんと投げたそうだ。ただ「自分は左投手を打つ練習は全くできなかった」。

 西本氏が5年生最後、37(昭和12)年夏の和歌山県予選決勝で対戦、3―4で敗れた。西本氏は7番で2打数1安打の記録が残るが「ヒットを打った記憶などない。おかしな当たりが記録上ヒットになったのだろう」と話していた。

 今回の展示品のなかに『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』(彩流社)の著者、高校教諭の山本暢俊さん(58)が生前の西本氏にインタビューしたDVDがある。西本氏が嶋氏について語っている。同郷、同い年の好敵手だった嶋氏への深い思いがにじみ出ている。

 戦争に翻弄(ほんろう)された青春時代を語る下りが印象深い。嶋は1945(昭和20)年3月29日、ベトナム沖で不帰の人となった。球友の戦死を悼む一方で、出征前に結婚していた事実に「少しだけホッとした気になった」という。「人間の一生は愛にある。親子の愛、異性との愛……。嶋は短い期間ではあったが、人を愛し、愛されるという体験をしていたんだと思うと……」

 西本氏も2011年11月25日、91歳で鬼籍に入った。DVDには貴重な証言がおさまっている。戦争を知らない世代に残した青春のメッセージである。

 江川さんは「もちろん、多くの方々に来場いただきたい。今では西本幸雄も嶋清一も知らない人が増えてきた。特に若い人に知ってもらいたいと望んでいます」と話した。  (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制・和歌山中)野球部時代、西本氏が監督を務めていた近鉄の中古ボールで練習。スポニチ入社後は本紙評論家の西本氏と記者席に並んで座った。嶋氏の海草中―明大―海軍で親友だった古角俊郎氏(故人)とは長年交流があった。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。

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