気がつけば40年(4)原・中畑の三塁争いラソーダ判定は不要だった

[ 2020年7月31日 08:00 ]

ドジャース・ラソーダ監督を直撃した1980年12月18日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】入社1年目の1980年12月17日、昼前に金杉橋の編集局へ出社すると、デスクに「社長がドジャースのラソーダ監督と竹橋で昼食を一緒にするという連絡が入った。おまえ、行って話を聞いてこい」と命じられた。

 スポニチは前年の1979年11月、日本初の大リーグ・オールスターゲーム7試合を主催。ナショナル・リーグ監督を務めたトム・ラソーダが再来日し、和田凖一社長を表敬訪問するというのだ。急いで千代田区一ツ橋のパレスサイドビル9階のレストランアラスカに向かった。

 車中、ラソーダに何を聞くか考えた。そうだ。巨人が翌1981年、米フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで2次キャンプを張ることになっている。今話題となっている三塁手問題を聞いてみよう。

 長嶋解任ショックによる大逆風の中で迎えた11月26日のドラフト会議。ミスターを追い出した形で敵役になっていた藤田元司新監督が大洋(現DeNA)、日本ハム、広島と競合した原辰徳(東海大)の「選択確定」くじを引き当てた。

 原は父・貢が監督を務める東海大相模で1年生から正三塁手となり、夏の甲子園に3年連続出場。父とともに進んだ東海大でもホットコーナーを守った。

 しかし、巨人の三塁には1979年のシーズン途中に高田繁からレギュラーを奪った中畑清がいた。1975年ドラフト3位で駒大から入団して3年間2軍暮らしを続け、ようやく開花した遅咲きのスラッガー。元気者で人気もある。

 原か中畑か。大リーグの監督にとってはどうでもいい話だろうが、巨人と良好な関係にあるラソーダにひと言もらえたらと思ったのだ。会食が終わるのを待って直撃した。

 「大物ルーキーの原辰徳が巨人に入団しましたが、三塁には中畑清がいます。どちらに三塁を守らせるべきでしょうか?」

 唐突な質問にも、ラソーダは丁寧に答えてくれた。

 「ハラは今年の日米大学野球で見たけど、パワーがある素晴らしいバッターだ。ホームランだけだったらナガシマより打つと思う」

 旧知の長嶋の名前を出して原の長打力を絶賛した上で続けた。

 「一人をコンバートすればよい。どちらを三塁にするかはジャイアンツの監督、コーチの判断で決めることだが、迷うならベロビーチで私が見て決めてあげるよ」

 私の意図を汲んで、リップサービスしてくれたのだと思う。原稿を書くのに十分なコメントだった。

 記事は翌18日付3面に掲載されたが、ラソーダ判定は必要なかった。藤田監督に迷いが全くなかったからである。

 宮崎の1次キャンプから三塁は中畑で、原は二塁。藤田監督は原を、中畑ではなくレギュラーまであと一歩のところまできていた篠塚利夫(のちに和典)と競わせたのだ。

 原はオープン戦もずっと二塁を守り、打率・343、2本塁打、5打点をマークした。4月4日、中日との開幕戦(後楽園)は6番二塁でスタメン出場。翌5日の第2戦(同)で小松辰雄から右翼席へプロ初ホームランを放った。

 一方の中畑は3番三塁で開幕し、4月11日の阪神戦(甲子園)で不振のロイ・ホワイトに代わり、初めて4番に入った。巨人軍第45代の4番である。重圧を味方につけて決勝ホームランを含む4打数3安打。原もこの試合で6番から5番に上がった。

 そのまま4番・中畑、5番・原の形が続くのだが、好事魔多し。中畑は5月4日の阪神戦(後楽園)4回、遊撃内野安打で出塁し、続く原の三ゴロで二塁に滑り込んだ際、三塁からの送球を受けた二塁手の岡田彰布に乗っかかられる形になって左肩を脱臼した。

 中畑が激痛に顔をゆがめ、ベンチで応急処置を受けていたときに攻守交代となり、場内アナウンスが流れた。

 「中畑に代わりましてセカンド・篠塚、セカンドの原がサードに回ります」

 超満員のスタンドが大歓声に包まれる。激痛に追い打ちを掛ける大音量。中畑は「ファンがサード・原を望んでいる。もう三塁には戻れない」と観念したという。復帰後はぶっつけ本番で一塁に入り、一塁・中畑、二塁・篠塚、三塁・原のシフトが定着した。

 巨人は5月下旬から独走態勢に入り、そのままゴールイン。4年ぶりのリーグ優勝を飾り、日本ハムとの後楽園シリーズも4勝2敗で制して8年ぶり日本一の座に返り咲いた。

 原は打率・268、22本塁打、67打点の成績を残して新人王を獲得。中畑は規定打席に到達したシーズンとしては最高の打率・322をマークした。

 ラソーダ判定を必要としなかった藤田新監督の下でみんなが輝き、長嶋ショックを完全に払しょくした巨人。私は翌1982年に担当することになる。=敬称略=(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍で活動していない。

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