追悼連載~「コービー激動の41年」その4 イタリアで得た無形の財産

[ 2020年2月20日 09:01 ]

故ブライアント氏を追悼するセレモニーが営まれたACミランの本拠地サンシーロ・スタジアム(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】コービー・ブライアントはイタリアのプロチームでプレーすることになった父ジョーとともに8歳で米国を離れた。イタリアと言えばサッカーの国。それは日常生活の一部でもある。自宅の近所にリングが設置されているバスケの屋外コートはあった。しかしそこはすぐにサッカーの練習場になってしまう。コービーは人数が増えるとやむなくゴールキーパーをやった。ただし1人しかいなかったときは自身が「シャドー・ボール」と名づけた特訓に汗を流した。

 1時間、2時間…。とにかくドリブルを続けていく。目の前でガードしているのは空想の世界にいるマジック・ジョンソン(元レイカーズ)、ラリー・バード(元セルティクス)、そしてマイケル・ジョーダン(元ブルズ)。コービーは母親のパムが「もう戻りなさい」と言うまで、姿の見えぬヒーローたちとのワン・オン・ワン(1対1)をやめなかった。

 日本なら小学校の高学年。しかしコービーは父の影響を十二分に受けたバスケットボールの世界においてはすでに大人だった。そしてイタリアのプロ・リーグ事情もブライアント家にとっては好都合だった。

 NBAと違ってイタリアでは遠征が少なかった。シーズン中のジョーの練習は午後で、コービーはいつも放課後に父親についていった。コートの半分でチームが練習していたとき、コービーは空いていた残り半分のコートでシュートを打ち、父のプレーをチラチラと見ていたという。時間はたっぷりあったので、ジョーはコービーにドリブル、パス、リバウンドの位置取り、ボックス・アウトのやり方など、あらゆる基本を息子に伝授。夜になるとビデオで「ドクターJ」の愛称で国民的スターとなったジュリアス・アービング(元76ers)のダンクや、アキーム・オラジュワン(元ロケッツ)のフェードアウト・ジャンパーを2人で研究。11歳のコービーはビデオで覚えたテクニックをすぐにジョーのチームメートを相手に実践して、プロの大人を負かしていたというからまさに“バスケの神童”だった。

 学校では同級生に「ここでは君は凄い選手だけど、アメリカに帰ったらそうじゃない」と突き放されることもあったが、そんな雑音には耳を貸さず日々、腕を磨いていく。最初は言葉がわからず「放課後は2人の姉(長女シャイアと次女シャリア)と一緒に帰り、その日覚えたイタリア語をお互いに教えあった」と苦難の学校生活が続いたものの、時間の経過とともにストレスは消滅。たまにサッカーをやることも苦痛ではなくなり、ACミランの熱烈なサポーターとなってしまった。

 「この国の人たちは家族を大切にするし、他人であっても家族同様に扱ってくれる。どこでもファミリーとして温かく迎えてくれた」とイタリア人気質もコービーは気に入っていた。ジョーは4つの都市のチームに在籍したが家族は常に帯同。NBA時代は移籍すれば単身赴任が当たり前だったが、イタリアでは家族が離れることはなかった。その後、コービーの結婚に反対したジョーは数年間にわたって息子と断絶状態になったが、イタリア時代の親子の絆は強じんなものだった。

 そしてブライアント家は1991年に米国にUターン。ジョーは家族を養うだけのお金をしっかり稼いでいた。新居はフィラデルフィア郊外のローワー・メリオン・タウンシップ。1682年にできたこの町は、ペンシルベニア州モンゴメリー郡にある62の自治体の中では最大で、現在は約5万7000人が生活している。公園やスポーツ施設が充実しており、平均世帯収入は14万ドル(約1500万円)を超えていると言うから、かなり裕福な町だと言える。

 人種構成を見ると白人が86%。世帯収入から想像できるように、黒人はわずか0・1%で、この数値を元にして実際に住む人数を割り出してみるとたった57人ということになる。その白人の町にブライアント家は転居。そしてコービーのスター人生がここから始まっていく。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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