ラグビーW杯あと100日 「熱量無限の男」ジョセフHCと日本を結びつけたのものとは

[ 2019年6月12日 09:30 ]

ラグビー日本代表のジョセフ・ヘッドコーチ
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 ラグビーW杯日本大会開幕まで、12日でちょうど100日となった。95年には母国ニュージーランド代表の一員としてW杯で準優勝した経歴を持つジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ(49)。母国で選手として成功した指揮官は、なぜ日本と結びつきを持ったのか。96年、選手として入団したサニックス(現宗像サニックス)にゆかりある人物たちの証言を基に、3つのキーワードでひもとく。

【グローバルアリーナ・近藤勇代表】
◆サニックス創業者・宗政氏のいちずな熱量に心を動かされ

 白の短パンに上半身は裸。雪上でジャンプしながら高々と舞い上げているのは、革製のラグビーボールだ。撮影年代は1970年前後。撮影された場所は正真正銘、南極だ。

 この一枚の印象的な写真の主人公は、株式会社サニックスを一代で築いた故宗政伸一氏(17年1月に死去。享年67)。同社を創業する前、海上自衛隊の南極観測船「ふじ」の調理師として越冬隊に参加。写真はこの時に撮られたものだという。

 宗政氏の側近の一人だったグローバルアリーナの近藤勇代表(63)は懐かしむ。「ラグビーが好きだった。ただ本人はプレーしたことがない」。なぜラグビーなのか。謎は残るが75年に創業した会社が大きくなると、94年にラグビー部を創部。瞬く間に当時の西日本社会人リーグに昇格を果たした原動力が、宗政氏の情熱にあることは間違いない。

 創部した頃は120年以上もアマチュア主義を守ってきたラグビー界が、プロ容認へ踏み切った時代。元オールブラックスのマーク・フィンレー氏の仲介でジョセフ、同時に入団することになるSHグレアム・バショップがサニックスに紹介された。「ジェイミーは最初から来ると言っていたらしい。でもバショップはちょっと迷っていた。それで宗政がニュージーランドに乗り込み、説得して2人で来ることになった」(近藤代表)という。

 近藤代表の回想によれば「ニュージーランドの宝を日本に出していいのか?と(同国の)国会で議論になった」ほど、衝撃は大きかった。そんな渦中にあったジョセフに、宗政氏は家族ぐるみの付き合いを通じて心のケアを施したという。17年1月、宗政氏が急逝すると、今度は2人が母国から福岡へ駆け付けた。

 「段取りよりも、目標まで突っ走る。どんな形でも、とにかくそこへ行く。そういうパワーは凄い人だった。ラグビーのスタイルと同じじゃないですか。だから気が合ったのでは」と近藤代表。ジョセフと日本を結び付けたのは、故人のいちずな心意気だった。

【元サニックス・松園正隆氏】
◆札付きの暴れん坊 ピッチで熱量隠さない

 「グラウンドでは激しい。コンタクトがあれば余計に激しい」。現役時代を回想するのは、43歳のトップリーグ最年長出場記録を打ち立て、17年に引退した松園正隆氏(45)。日体大卒業後にサニックス入りした96年4月は、ジョセフが来日した時期と重なる。持ち場はプロップ。間近で日本での現役時代を見てきた一人だ。

 ある日の練習。手を骨折してギプスをしたジョセフもアタック&ディフェンスに参加した。「そんなにやらないんだろうなと思ったら、ギプスをした方の手でハンドオフ」。食らう羽目になった向井清一氏(42、現宗像サニックス普及・宣伝担当)は「鼻に当たった。折れてはなかったですけど」。この手の話には事欠かない。

 こんな逸話もある。今日まで1100人以上が選出されているオールブラックスで、歴代で最もダーティーなプレーヤーとして恐れられたのが、87年の第1回から3大会連続でW杯に出場したプロップのリチャード・ロー氏だ。当時は現在と違い、少々のラフプレーが容認されていたとはいえ、目つぶしなどの行為で幾多の出場停止処分を受けているいわく付きの選手だった。

 そんなロー氏と同時期に黒衣に身を包んだジョセフ。松園氏は「ローの次に暴れん坊なのが、ジェイミーと言われていた」と話す。それも激しい闘争本能の証左。「選手の時から気持ちを凄く重視していた。気持ちをむき出しでやる選手だった」

 17年4月22日に行われたアジア選手権第1戦の韓国戦。若手で構成した日本代表を率いた試合後、日本協会を通じて厳しいコメントを発した。「一番残念だったのは11人が初キャップにもかかわらず、情熱が足りなかったところだ。ディフェンスでは激しさや、死に物狂いで止めるというところがあまりなかった」。指揮官として何よりもファイティングスピリットを求めるのは、そうした過去があればこそだった。

【元サニックス・広瀬友幸氏、寿司懐石「倉満」谷仁志さん】
◆「スシ」サインプレー 食への熱量半端なし

 食はジョセフにとって、ラグビーや日本と自分自身をつなげるものだ。現役時代はセットプレーをリード。サインプレーは「ジェイミーが覚えやすいから」(松園氏)という理由で日本食がコールサインとなった。スシ、ブリカマなどなど。元同僚の広瀬友幸氏(43)は「焼き肉が大好き。寿司、刺し身、ラーメンも好きだった」と当時を懐かしむ。

 「ノミニケーション」も大好き。酒量もオールブラックス級で、悪酔いしたジョセフに殴られたりシャツを破られたりした被害者は多数。だがそれで距離が縮まる。地中で肉や野菜を蒸し焼きにする先住民マオリ伝統の料理「ハンギ」は、自ら企画しサニックスの恒例行事に。昨年指揮を執ったサンウルブズでは、遠征中に豚の丸焼きを調理し、選手に振る舞ったことも。今も昔も、食を通じて一体感を高める。

 「カツオやキンメダイをわらでいぶしたものをお出しすると“この香りは何ですか?”と聞かれます」と話すのは、サニックスの地元、宗像市で寿司懐石「倉満」を営む谷仁志さん。ジョセフは隠し包丁などの手仕事を食い入るように見入っていた。そんな料理好きの一面がW杯の歴史を変えていたかもしれない。

 95年W杯の決勝。開催国の南アフリカと対戦したオールブラックスは、決戦2日前に多くの選手が食中毒を起こす。現在でもさまざまな臆測が飛び交うこの事件に、実はジョセフは巻き込まれていなかったという。

 「ジェイミーはあの時、自分でご飯を作ったらしいです。鍋料理のようなもの。だから本人と何人かは、何ともなかったと言ってました」(松園氏)。もし、もっとたくさんの選手に手料理を振る舞っていたら…。さまざまな想像をかき立てる、食との切っても切れない関係だ。

《バショップ氏 来日しエール》現役引退後は母国で大工に転身したバショップ氏がこのほど来日し、エールを送った。ジョセフHCについて「日本のことも、日本人のこともよく理解している。オフフィールドの大事な部分を理解しているのは(HCとして)いいこと」と称賛。日本代表について「今はプロ選手が多く、強く、速くなっている」とした上で「W杯でもいい結果が残ると思う」と期待した。

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