バスケ八村塁、才能持て余した少年時代に運命変えた恩師の一言 遠かった夢すぐそこに

[ 2019年6月12日 10:00 ]

2020THE STORY 飛躍の秘密

奥田少年野球クラブ時代の八村塁(後列左から3人目)
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 今月20日(日本時間21日)に開催されるNBAドラフトで日本人初の1巡目指名が有力視されるバスケットボール男子日本代表の八村塁(21=米ゴンザガ大)は異色の経歴を持つ。小学生時代は野球に打ち込み、捕手で4番。陸上の100メートルで富山県大会を制覇するなど短距離でも実績を残した。バスケットボールを始めたのは中学1年時からと遅い。そこからいかにして成長を遂げたのか。15歳まで過ごした富山時代の恩師らの証言を基に原点を探った。

 少年野球の中心選手の代名詞は「エースで4番」だが、奥田少年野球クラブの八村は「捕手で4番」。当時、監督を務めた高嶋信義氏(73)が投手を任せられなかった意外な理由を明かした。

 「投手の練習もしたけど、球が速い上に“ズシッ”と重くて、捕手が手を痛がるんですよ。真ん中から少しでもズレると、捕球できずにパスボールになってしまう。球に威力がありすぎて投手にできなかった」

 子供では手を痛めるため、キャッチボールの相手は監督やコーチら、大人が務めていたという。野球を始めたのは小学2年。捕手でも存在感は抜群だった。少年野球では捕手の肩が弱いため、一塁に走者が出た際に盗塁を仕掛けることが多いが、八村は小学生離れした強肩。高嶋氏は「初回に鋭い送球を見せると、その後は相手が走ってこなくなった」と振り返る。

 打者としては本塁打と三振が多い大砲タイプだが、足が速いため内野安打も量産。100メートル走で県大会で優勝した実績があり、空手に挑戦した時期もある。幼なじみで元チームメートの木本紗英さん(21=学生)は「器用なタイプではないけど、運動神経抜群でヒーロー的な存在だった」と回想した。

 富山県は雪国。冬に屋外で練習できない環境が、八村の可能性を広げた。雪でグラウンドが使えず体育館で練習する12~2月は、奥田少年野球クラブの指導方針で、神経系や俊敏性を磨くサーキットトレーニングや柔軟性を高めるストレッチなど、運動能力を上げるメニューに時間が割かれた。月に2、3回のペースでバスケットやドッジボール、バレーボールなども実施。高嶋氏は「塁は凄く体が硬かったので、よくあそこまで成長したなという感じです。子供では体を押せないので私がいつも柔軟をサポートしていました」と懐かしんだ。

 小学6年の夏。白球を追う八村がアクシデントに見舞われた。股関節に成長痛を発症。思うように足を動かせず、練習に参加できなくなった。復帰できないまま卒業を迎え、奥田中に進学した。入学時には痛みは消えていたが、半年以上も離れた野球を続けるか迷った。4月下旬になっても部活動が決まらない八村に目を付けたのが、バスケ部の坂本穣治コーチ(59)。入部が決まっていた八村のクラスメートに「とにかく一度、八村を練習に連れてきてほしい」と伝え、熱烈なラブコールの末に勧誘に成功した。

 バスケ部入部が決まると、坂本コーチは初心者の八村にいきなり「NBAを目指そう」と告げた。世代トップクラスの実力がありながら野球、陸上、空手が長続きしなかったことを踏まえ、世界最高峰の舞台を意識させてモチベーションを持続させる狙いがあった。「同級生にNBAオタクがいたので、塁に雑誌や映像を見せるように伝えていました。それでバスケにのめり込んでいったんですよ」。八村は部活がオフの日も、チームメートを誘って公共の体育館でシュート練習するなど努力を積み、急速に力を伸ばしていった。

 バスケに転向後、野球少年時代に連日ストレッチをしていた成果が出た。奥田少年野球クラブの関係者は「塁は凄く体が硬かった」と口をそろえるが、坂本コーチは否定する。ニックスなどで活躍したラリー・ジョンソンのゴール下での足の運びや、ブルズ黄金期を支えたデニス・ロッドマンのリバウンドでの腕の使い方など、元NBAスター選手のプレーを器用にコピーしていたと証言し「塁は映像で見せたプレーをすぐに吸収した。難しい動きをまねできたのは股関節や肩が柔らかかったから」と強調した。

 中学3年時の全国大会で準優勝。主力として活躍した八村の元には、明成(宮城)、北陸(福井)、延岡学園(宮崎)、八王子学園八王子(東京)、藤枝明誠(静岡)など全国の強豪校から次々と勧誘が舞い込んだ。NBAを意識する八村と坂本コーチが重視した条件は「卒業後に米国の4年制大学に行ける高校」だった。前例がない条件に多くが戸惑い、返事をはぐらかす中、明成だけは「NCAA(全米大学体育協会)はかなり難しい。カナダの大学なら可能性はある」と代替案を提示。これが進学の決め手となった。

 明成ではウインターカップ3連覇に貢献。14年のU―17世界選手権で大会得点王に輝いた実績も評価され、米ゴンザガ大進学を勝ち取った。そして、夢のNBA入りが間近に迫っている。坂本コーチが奥田中卒業時に八村に渡した修了書には「“そんなことでNBA選手になれるか”そう言って夢のようなことを言っていたけれど、一歩一歩夢に近づいてきましたね」と記されている。八村が奥田少年野球クラブの卒団記念文集で未来の自分に贈った言葉は「がんばれ」。当時の尊敬する選手は米大リーグで活躍していたイチローだった。奥田少年野球クラブの別名はイチローの古巣オリックスと同じ「ブルーウェーブ」でもある。3月に現役引退した憧れの存在からバトンを受けるように、NBAの歴史に名を刻む挑戦が幕を開けようとしている。

 《両親譲りの語学センス、苦手英語もメキメキ上達》身長2メートル3。ゴンザガ大でフォワードとして活躍した八村は少年時代から“大物”だった。小学生の高学年で身長は1メートル70に到達。ランドセルが小さすぎて背負えず、いつも片方の肩に掛けていた。地震を想定した避難訓練では机の下に体が入りきらず、机が浮き上がっていたという。中学3年時の身長は1メートル90弱で、足は30センチ超。上履きのサイズがないため仕方なくかかとを踏み、バスケットシューズは米国から取り寄せていた。勉強は苦手で中学3年の英語の成績は10段階で2。語学の勉強に本格着手したのは、米国留学を控えた高校3年だった。日本人の母はニュージーランド留学経験のある英語講師。ベナン人の父は英語、フランス語、日本語など7カ国語を話せる。両親から譲り受けた語学センスもあり、ゴンザガ大進学後にメキメキと上達。サイズ、コミュニケーション能力ともにNBAで活躍する下地はできている。

 《申請233人…指名60人の狭き門》NBAドラフトは20日にニューヨーク州ブルックリンで開催される。米国内の大学4年生以外でドラフトでの指名を可能にする「アーリーエントリー」に申請したのは3年生の八村を含めて233人。指名は2巡目までの60人で狭き門となる。年間最優秀選手に輝いたザイオン・ウィリアムソン(デューク大)が全体トップ、ジャー・モラント(マリー州立大)が2番目、R・J・バレット(デューク大)が3番目で指名されることが有力視されているが、4番目以降は流動的。抽選の結果、全体トップ指名権はペリカンズが獲得している。

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