大坂なおみの「言葉」に見る人生哲学 私の辞書にはなかった「REGROUP」という単語
【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】高校時代に使っていた英和辞典をめくってみた。別の大きな辞書ならあったかもしれないが、表紙の裏に自分の名前を書き込んだ古い私の辞書には「REGROUP」という単語はなかった。意味は「バラバラになった部隊を再編成する」「失敗したあとでやりなおす」「挫折を経験したあとに自分を取り戻す」。今でこそインターネットで調べればすぐにその意味はわかるが、もし大坂なおみ(21=日清食品)が昭和の時代のヒロインだったら、みんなでこうささやきあったかもしれない。
「えっ、どういうこと?」「何を言いたいの?」。
テニスの全豪オープン女子決勝。ペトラ・クビトバ(28=チェコ)をフルセットの末に下して大坂はグランドスラムで2大会連続の優勝を飾った。第2セットに3度のチャンピオン・ポイントを握りながらクビトバに押し返された試合。コート上で叫び、乱れる姿に多くの日本のファンが気をもんだはずだが、トイレに駆け込んだあとに臨んだ最終セットでは平常心を取り戻していた。
接頭辞「RE」を含む自動詞が登場するのは試合後の会見での出来事。「後悔したくはなかった」と語った大坂はこう続けた。
「もし第2セットのあと自分を取り戻せないのなら、きっと試合後に振り返って泣いていたことでしょうね」。
この「自分を取り戻す」という意味の自動詞が「REGROUP」だった。
他動詞でも使えるようだが、目的語を含まないなら「取り戻す」べき対象は自分自身。名詞で「集団」を意味する「GROUP」は動詞では「寄せ集める、集団になる」となり、そこに接頭辞「RE」を加えると「もう一度、元に戻す」と微妙に意味が変化していく。
スポーツ界にはリスタート、リマッチ、リバウンドなど「RE」を含む言葉も多いのだが、“なおみ語”のおかげで、私のボキャブラリーはひとつ増えた。英語に慣れ親しんだ方にとっては驚きではないのだろうが、昭和の古い辞書をまだ本棚に置いている人間にとっては、とてもためになる記者会見だった。
1991年8月。現在、改修中の東京・国立競技場では陸上の世界選手権が開催されていた。大会も終盤を迎えていた8月30日の男子走り幅跳び決勝。私の目の前でマイク・パウエル(米国)が5回目の試技で8メートル95の世界新記録を樹立して優勝した。
ただしこのとき、もうひとつの“世界新”が誕生していた。
優勝候補の筆頭ながら2位となったカール・ルイス(米国)は6回の試技のうち5回で記録を残し、4回目には追い風参考ながら8メートル91、そしてパウエルがボブ・ビーモン(米国)の世界記録(8メートル90)を書き換えたあとも、8メートル87(自己ベスト)と8メートル84を跳んだ。決勝での最高記録と最低記録の差はパウエルが1メートル10だったのに対し、ルイスはわずか23センチ。同一大会で8メートル60以上を5回クリアした世界初のジャンパーとなった。
もちろん2位となったことでそこに笑顔はなかった。しかし私のそばにいたAP通信の陸上担当記者はルイスの底力をきちんと評価していた。
「パウエルは勢いで跳んだだけ。何も計算していなかっただろう。本能だけが彼を揺り動かした。でもルイスは違う。そもそもロング・ジャンプ(走り幅跳び)の助走をすべて同じ歩幅で正確に刻める選手なんていない。どこかにズレが生じる。しかしルイスは踏切板が迫ってくるまでにそのすべてのズレを修正してくる。だから失敗しない。すべてのミスを帳消しにしてからジャンプしている。恐るべき復元力だ。もし世界一のジャンパーは誰か?と聞かれたら、私は迷うことなくルイスだと答える。競技中に自分をどこまで取り戻せるか?それが選手の力量を図る本当の物差しだ」。
大坂は28日に世界ランク1位となった。タイトルも評価も世界のトップ。私にはパウエルとルイスが合体したかのようにも見える。本人は大会前に3歳児だった精神年齢が5歳児になったと語って周囲を笑わせていたが、少なくともチコちゃんは軽く超えている(チコちゃん、ごめんね)。
「REGROUP」。
実にいい言葉だ。使えるシチュエーションはスポーツばかりではないだろう。自分の思いどおりにならないのは人生とて同じ。そのとき、世界の不幸の中心に自分がいると嘆いて責任を誰かに押し付けるのか?あるいはバラバラになった心と体をつなぎ合わせて自分を元の姿に戻すのか?どちらがその後に悔いを残さないのかは明白だ。
すでに各ブックメーカーの間では全仏オープン(5月27日開幕)の優勝オッズが出ている。大手のウィリアム・ヒル社が女子シングルスで一番手の5倍に設定したのは大坂ではなく、前世界ランク1位のシモナ・ハレプ(27=ルーマニア、現在3位)。7倍の二番手も大坂ではなく、4大大会で通算23勝を挙げているセリーナ・ウィリアムズ(37=米国、同11位)となっている。
大坂はスローン・スティーブンス(25=米国、同4位)とエリナ・スビトリナ(24=ウクライナ、同7位)と並んで10倍の三番手。戦いは再び“後方”からの追撃によって始まっていく。
しかしチコちゃんを超える5歳児なら?もうなんでも知っているはず。全豪オープンで手したのはトロフィーと名誉だけではない。自分を取り戻す方法を身に着けたことは大きかった。
ズレが生じても自動詞としての「REGROUP」が可能になった。それこそローラン・ギャロスのクレーコートでは彼女にとって最大の武器になるだろう。
日本は大坂の優勝に沸いた。第2セットと最終セットで姿を変えた戦い方は印象的だった。「自分もそうでありたい」と感じた人も多いことだろう。
2019年1月26日。試合終了間際には空から小雨がポツリポツリと落ちていたが、ひとつの言葉がメルボルンの夜空に輝やいていた。
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には8年連続で出場。昨年の東京マラソンは4時間39分で完走。
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