小澤征爾さんが世界に飛び立つ転機“N響事件”とは 三島由紀夫、石原慎太郎らが団結 「敬意と感謝」追悼

[ 2024年2月9日 21:35 ]

 2002年1月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートで指揮する小澤征爾さん(AP=共同)
Photo By 共同

 世界的な指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。88歳。旧満州生まれ。

 米ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めるなど国際的に活躍し、「世界のオザワ」として幅広い人気を集めた小澤さんは、桐朋学園で斎藤秀雄氏に指揮法を学んだ。1959年にフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、一躍脚光を浴びた。カラヤン、バーンスタインら名指揮者に師事し、米サンフランシスコ交響楽団音楽監督などを歴任。海外で活躍する日本人指揮者の先駆けになった。73~2002年にボストン交響楽団の音楽監督を務め、世界的な評価を確立した。

 その小澤さんが、日本から世界に飛び出すきっかけとなったと言われているのが、1962年に起きた“N響事件”だった。小澤さんが26、27歳の時、NHK交響楽団(N響)と半年間「客演指揮者」として契約。その後、さらに契約延長し精力的に活動を行っていたが、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラなどで公演を行う海外ツアー中に楽団員と小澤さんの間に軋轢(あつれき)が生じる。さら同年11月に行われた定期公演の一部酷評報道が決定打となり深刻な対立に発展した。

 同年11月16日にN響演奏委が「今後、小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤さんとNHKは折衝を重ねたが折り合わず、逆に小澤さんは契約不履行と名誉毀損で訴える事態となってしまった。

 そしてこの騒動はその後、政財界を巻き込む社会問題、世代間闘争に発展。浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、谷川俊太郎、三島由紀夫、由起しげ子ら演出家や作家が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出。芥川也寸志ら若手音楽家約10人が事件の真相調査に乗り出した。最終的には、翌1963年1月にNHK副理事と小澤さんが話し合いの場を持ち、一応の和解が成立した。しかし、N響に復帰というわけではなかった。

 この“N響事件”は小澤さんに大きなショックを与え、「もう日本で音楽をするのはやめよう」と活動の舞台を世界に移していった。そこから数々の「日本人初」の偉業を成し遂げた“世界のオザワ”。小澤さんが次にN響の指揮台に立つのは、32年3カ月後の1995年1月だった。

 小澤さんの訃報を受け、NHK交響楽団は公式X(旧ツイッター)で追悼メッセージを投稿。【指揮者 小澤征爾さんの訃報に接し】と題して「今月6日、日本を代表する指揮者、小澤征爾さんが心不全で逝去されました。享年88。小澤さんは1958年9月にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。その後カラヤン、ミンシュ、そしてバーンスタインらの薫陶を受け、1961年7月にはストラヴィンスキー《ペトルーシカ》などの放送収録でN響を初めて指揮しました。翌1962年6月には27歳にしてN響の客演指揮者として契約を結び、メシアン《トゥランガリラ交響曲》の日本初演(7月)、東南アジア演奏旅行(9月~10月)などを成功に導くなど、N響に目覚ましい成果をもたらしました。その後小澤さんがN響を指揮する機会は長く途絶えましたが、1995年にチャリティコンサートで33年ぶりの共演が実現し、2005年にも子供のためのプログラムでもN響の指揮台に立ちました。心から哀悼の意を表するとともに、小澤さんの類まれなる芸術的成果と世界の音楽界への貢献に対し、敬意と感謝を申し上げます。NHK交響楽団」と偉大な功績を称え、感謝の意を表した。

続きを表示

この記事のフォト

「美脚」特集記事

「STARTO ENTERTAINMENT」特集記事

2024年2月9日のニュース