気がつけば40年(36)さよなら多摩川 1998年3月 43年の歴史に幕を下ろした巨人軍の聖地

[ 2022年12月6日 13:46 ]

1998年3月23日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】40年の記者生活を当時の紙面とともに振り返るシリーズ。1997年から記者に指示を出すデスクになり現場を離れたが、これだけはどうしても自分で書きたかった。1998年3月22日。「さよなら多摩川」のセレモニーである。

 この年の3月31日をもって建設省(現国土交通相)に返還された多摩川グラウンド。巨人の専用練習場になったのは1955年6月11日だった。長嶋茂雄が入団する3年前である。それまでは多摩川の対岸、川崎市の丸子橋のたもとで練習していた。草はぼうぼう。雨が降れば、東急東横線鉄橋の下を使った。

 当時の水原茂監督の要望で建設省から借り受け、名グラウンドキーパーの務台三郎が丹念に整地して立派なグラウンドができあがった。巨人ナインの汗と涙を吸い込んだグラウンド。1965年から始まる栄光のV9はこの地で生まれた。

 とはいえ河川敷は河川敷だ。大きな台風が来るたびに冠水。鯉がはねるばかりかヘドロがグラウンドを覆い、3カ月間使えなかったこともある。打球が多摩堤通りを走行する車を直撃する危険性もあった。

 1985年、川崎市多摩区のよみうりランドにジャイアンツ球場が建設された。その後も多摩川グラウンドは調整の場として使用されてきたが、ついにその役目を終えるときが来たのだ。

 現役時代は赤バットで鳴らし、監督として不滅のV9を達成した川上哲治、「猛牛」と呼ばれた千葉茂をはじめ藤田元司、森昌彦(のちに祇晶)、国松彰ら往年のスターが駆けつけたセレモニー。約8000人のファンが土手を埋め、紅白戦では江川卓が投げ、中畑清が打った。

 試合が終わり、ついに最後の瞬間がやってきた。川上、千葉、藤田の3人がスコップでマウンドのプレートを外し、数々の栄光に彩られた43年の歴史に幕を下ろしたのである。

 あいさつに立ったV9監督はこう言って言って声を詰まらせた。

 「このグラウンドは我々の仕事の原点でした。ここで訓練して自分を鍛える。長嶋も王もみんな一列に並んで外野に向かって小石拾いをしたのを思い出します。昔のことが終わりのない映画のようにクルクルと回って…」

 私の野球記者としての原点もこの多摩川にあった。初めて野球を担当したのは1982年の巨人。1月、自主トレの時期から連日通った。右も左も分からない新米野球記者。他社の先輩の動きを見て、選手や首脳陣から話を引き出す要領を身につけていった。

 スポニチでは3人いた巨人担当の一番下っ端。初めて1面スクープをものにしたのは多摩川だった。当連載の(5)で書いた江川の電気バリ治療である。

 この年の球宴期間中に右肩を痛めた怪物はだましだましの投球で8月19日の広島戦(広島)から9月4日の阪神戦(甲子園)まで4試合連続完投勝利を挙げたが、右肩はもう限界にきていた。

 試合がなかった同9日、多摩川での調整練習。捕手後方の植え込み越しに見た江川の投球練習は8割がカーブだった。2割の真っすぐも全力じゃない。関係者を取材し、阪神戦後に電気バリ治療を受けたことをつかんだ。江川にぶつけて事実を確認。翌日の紙面で電気バリに触れたのはスポニチだけだった。

 当連載(16)で書いた1986年の「クロマティ造反事件」も忘れられない。4月24日の大洋(現DeNA)戦を守備の乱れで逆転負けし、王監督が激怒。翌25日午後1時、多摩川に全員集合をかけた。ナイターを控えた昼間の懲罰練習。クロマティがふてくされ、グラブを蹴るなどあからさまに反抗的な態度を取った。

 私が近づくとクロウは「アメリカに帰ったら仲間に話すよ。このジャパニーズスタイルの練習のことをね。でも、誰も信じないだろうな」と言うから、こう返した。

 「違うよ。これはジャパニーズスタイルじゃない。ジャイアンツスタイルなんだ」

 「ホント?ジャイアンツ・オンリー?」

 クロウの気持ちも分からないではない。私は反抗的な行為について短い記事にしたが、このトークについては一切触れなかった。ところが、ライバル紙が1面でドーンと「クロマティ造反」。私とのやり取りを掲載したのだ。後ろで聞き耳を立てていたらしい。

 おかげで私は横浜球場で王監督から事情聴取を受けることになった。ライバル紙の記事には私が話したフレーズをクロウが言ったように書かれている部分もあり、そのあたりを説明すると王監督は納得してくれた。首脳陣批判は罰金の対象になるが、クロウはノーペナルティですんだ。

 そんな思い出だけじゃない。土手を渡ったところにある「グランド小池商店」。おでんと焼きそば、裏メニューのインスタントラーメンは空腹にしみたなあ。

 巨人軍、そして古いジャイアンツ担当記者にとっての聖地。現在は多摩川緑地広場硬式野球場として大田区に管理され、平日は近隣の高校の野球部員、週末は主に少年野球チームの中学生が白球を追いかけている。=敬称略=

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年生まれの67歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。特別編集委員。

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