古田敦也氏 04年の涙の選手会ストライキ 球団経営陣を動かしたのは「ファンの力です」

[ 2021年6月15日 06:45 ]

2004年のプロ野球協議・交渉委員会を終え、大勢の報道陣に囲まれるヤクルト・古田敦也選手会長(中央)
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 野村ID野球の申し子として数々の好成績を残し、ヤクルトで選手兼任監督も務めた古田敦也氏(55)が、14日深夜放送の関西テレビ「こやぶるSPORTS超」(月曜深夜0・25)に出演。2004年9月に起こった選手会のストライキについて振り返った。

 当時39歳で、プロ野球選手会の会長だった古田氏は、渦中の人物だった。近鉄とオリックスの球団合併案に端を発したこの騒動で、1リーグ制に異議を唱えた選手会は、球団側との交渉の日々。交渉が終われば、ユニホームに着替えて球場でプレーする古田氏も「闘う選手会長」などと言われた。だが、交渉は平行線で、結局、選手会が出した結論は「ストライキ」だった。

 当時、フジテレビの番組に出演し、ファンの声に涙を流した古田氏はしみじみと振り返った。「この時は球界再編として、1リーグ8球団を目指す、と言っていた代表の方もいました。でも、球団数を減らすとファンは減るんです。ファンが減れば、また球団数を減らさないといけない。何より、ファンにも説明していない。僕ら選手にも説明していない。もう、決まったことだからと言われても、やっぱり納得できなくて」

 先の見えない戦いだったが、甲子園をはじめ、ビジター球場も「古田コール」が巻き起った。これには「僕の力にもなりました」と改めて感謝。そして、予想外の出来事も。ストライキは2日間で終わったが、「ストライキした次の日には経営陣(の意見)が変わっていました。やっぱり12球団あったほうがいいね、と言いましたからね。それはファンの力です、本当に」と、多くのファンが日本球界を動かしたと断言した。

 当時は選手会にも「熱いやつが多かったので、僕の背中を押してくれた方が多かった」という。いまでも12球団が存在するのは、この時の闘争があったからこそ。古田氏は番組内で「野球を応援してください」と改めてお願いした。

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2021年6月15日のニュース