【内田雅也が行く 猛虎の地】小山正明がプロを夢見た日々 洋松キャンプでの打撃投手

[ 2020年12月16日 11:00 ]

(15)明石公園球場

リーグ優勝を決め、バンザイする(左から)吉田義男、野田誠三オーナー、小山正明、藤本定義監督、戸沢一隆球団代表(1962年10月3日)

 兵庫県立高砂高校3年生だった小山正明が甲子園球場で阪神の入団テストを受けたのは1952(昭和27)年11月16日である。小山が「忘れもしない。東急と秋のオープン戦。阪神は怪童と呼ばれた西村(修)が先発だった」と覚えていた。『阪神タイガース・ヒストリートレジャーズ』(ベースボール・マガジン社)にある。東急(現日本ハム)、西鉄(現西武)と変則ダブルヘッダーの試合前、午前中だろう。

 1人だけの特別テストは小山の父・英一が遠縁にあたる阪神オーナー・野田誠三(電鉄本社社長)に出した「息子をテストしてやってほしい」と出した依頼状で実現した。父は小学校教諭で書道の師範、手紙は筆で巻紙に書かれていた。

 一塁側ベンチ横のブルペンで投げた。監督・松木謙治郎、コーチ・御園生崇男、2軍助監督・河西俊雄が見守った。

 受けた捕手は同年秋入団したばかりの新人、石垣一夫で「速い球放るな」と言ってくれたと、雑誌『野球界』(58年8月号)の松野和子『小山正明投手物語』にある。

 河西に「誰かスカウトは来ているのか」と問われ「誰も来ていません」と答えた。合否は後日連絡するとのことだった。

 だが待てど暮らせど通知は届かない。不安のなか年が明けた53年2月、父の「碁仲間」の運動具店主から紹介を受け、明石公園球場(今の名称は明石トーカロ球場)でキャンプ中の洋松(現DeNA)にみてもらうことになった。明石市二見町の自宅から近かった。

 総監督・新田恭一から「フリー打撃で投げなさい」と言われ、全力投球した。打者が「もう少しスピード緩めてくれ」と言った。播州弁で「ええ球放るやんか」という青田昇の声が聞こえた。「理論派」で通る新田から「バックスイングの重要性」を教わった。

 連日通った。「打ち上げの時」(小山)だから3月2日だろう。新田が「君を獲りたいんだが……」と残念そうに話した。洋松は大洋と松竹が合併し2月5日に発足したばかり。67人の選手を抱え、野球協約上の選手制限数45人(当時)から20人以上整理の必要があり、余裕はなかった。

 「その晩だった」と小山は言う。帰宅すると阪神からはがきが届いていた。「入団決定に付 三月四日来社されたし」とあった。洋松にあいさつに行くと新田は「ぜひ阪神でがんばりなさい」と一緒に喜んでくれた。

 阪神も洋松での動向を把握し、合否発表が遅れたようだ。松木は<制球力が良かったので練習用投手には使えると考えた>と『タイガースの生いたち』(恒文社)に記す。練習生で月給わずか5千円だった。座右の銘「忍耐」を思う、320勝大投手の誕生だった。 =敬称略= (編集委員)

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