関根潤三さん老衰で死去、93歳 都内病院で静かに…二刀流で活躍、監督としてヤクルト黄金期の土台築く

[ 2020年4月10日 05:30 ]

ヤクルトの監督として、黄金期の土台を築いた関根潤三氏(右)
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 近鉄、巨人で投手、野手として通算65勝、1137安打を記録し、大洋(現DeNA)とヤクルトで監督を務めた関根潤三(せきね・じゅんぞう)氏が9日午前9時45分、老衰のため東京都内の病院で死去した。93歳。東京都出身。コーチ、監督としては数々の選手を育て、解説者としてもソフトな語り口で親しまれた。葬儀・告別式は家族葬で営まれ、日程は未定。喪主は長男優一(ゆういち)氏。

 愛情を持って選手を育て、穏やかな語り口で野球ファンを引きつけた関根氏が、静かに逝った。ここ数年は球場から足が遠のき、施設に入って療養。最近は面会者にもあまり対応できるような状態ではなかったという。

 プロ入り8年で65勝を挙げる一方、代打などでも出場した。本人は当時を「4番・投手でスタメン出場していた試合もあったんじゃないかな?」と振り返っていた。57年から本格的に外野手へ転向し1137安打。法大時代にキャッチボールで「球の回転、縫い目を見て捕れ」と言われ、打者で「物凄いプラスになった」という。通算50勝&1000安打を記録したのはプロ野球で2人だけだ。ソフトバンク・王貞治球団会長は「じっと構えてボールを見てスイングする。僕が“動”だったら関根さんは“静”でした」と評した。

 関根氏が後に指導者、解説者として球界へ貢献する原点となったのが、巨人へ移籍した65年の1月。長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)の結婚式の後、当時の川上哲治監督と会った。式を終え、待ち合わせの場所で川上監督は「野球界にも、こんな素晴らしいお嬢さんがお嫁に来てくれる時代になった」と大粒の涙を流していた。かつて「職業野球」と揶揄(やゆ)された時代もあったプロ野球。先人たちが築き上げたから今の繁栄がある。川上監督の言葉を、関根氏はずっと胸に抱いてきたという。

 野球への感謝。その思いが指導者としての根幹にあった。ヤクルト・杉村繁打撃コーチは「監督としては厳しい人だった」という。練習漬けの日々で、口癖は「骨から汗をかけ」。それでも、指導には常に愛情があった。「この選手を何とかしたい」と思えば、とことん付き合う。広島のコーチ時代は飲みに出かけた衣笠祥雄を宿舎で待ち、帰ってくると夜中まで素振りを見守った。
 ヤクルトの監督時代は、バントに失敗した栗山英樹(現日本ハム監督)を「あれじゃ駄目なんだな」と笑顔で話し、2軍落ちさせた。責めたのはミスに“しまった”と思って走るのが遅れたこと。将来を見て、我慢して選手を使い続けた。

 解説者となってもその姿勢は変わらなかった。ソフトな語り口で常に伝えるのは選手のいい面。選手の将来、球界の未来をいつも思っていた。監督としては331勝408敗41分けで、6シーズンでAクラスは83年(3位)の1度だけ。両球団の再建期で成績には恵まれなかったが、残した功績は計り知れない。

 ≪投手と野手で球宴5度選出≫関根氏は投手として通算65勝、打っても通算1137安打と投打二刀流の活躍を見せた。プロ野球で通算50勝と通算1000安打を両立したのは、37~58年西沢道夫(中=60勝、1717安打)と2人だけ。2リーグ制となった50年以降の入団では関根氏が唯一の達成者だ。また、オールスターに5度選出されているが、53年は投手、59、60、62、63年は野手として出場。投手、野手の両方で出場したのは関根氏が史上初で、他には大谷翔平(日=現エンゼルス)しかいない。

 ◆関根 潤三(せきね・じゅんぞう)1927年(昭2)3月15日生まれ、東京都出身。日大三中(現日大三高)から法大に進み、六大学リーグ通算41勝30敗。50年に近鉄入団。53年から3年連続2桁勝利を挙げ、51、53年には開幕投手を務めたが、57年に自ら志願して外野手に転向した。オールスターには5度出場。65年に巨人に移籍し、同年限りで現役引退。広島、巨人のコーチを経て82~84年に大洋(現DeNA)、87~89年にヤクルトで監督を務めた。03年に野球殿堂入り。

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