内田雅也が行く 猛虎の地(10)沖縄・屋嘉「捕虜収容所」―「鉄の暴風」で捕虜となった監督

[ 2019年12月11日 08:00 ]

コザの収容所で捕虜証明書というべき住民票の交付が始まった。1945年4月撮影=那覇市歴史博物館提供=
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 【(10)沖縄・屋嘉「捕虜収容所」】

 阪神がキャンプを張る沖縄・宜野座村野球場から車で15分、金武(きん)町屋嘉(やか)の海岸沿いに沖縄戦で捕虜となった日本兵約7000人がいた捕虜収容所跡を示す石碑が建っている。

 阪神の初代主将で監督も務めた松木謙治郎も収容された。自ら記した『阪神タイガース松木一等兵の沖縄捕虜記』(現代書館)には壮絶極まる体験がつづられている。

 松木は監督兼選手だった1941(昭和16)年限りで現役を引退し、大同製鋼(現大同特殊鋼)大阪工場に勤務していた。43年8月召集、35歳で入隊した。中国で訓練を受け、44年8月、上海から乗せられた船が着いた先が沖縄・那覇だった。

 45年4月1日「Lデー」の米軍上陸から激しさを増した沖縄戦のまっただ中にいた。前田高地では迫撃砲でともに倒れた兵が即死、自身は助かった。南部へ後退し、津嘉山では迫撃砲の破片が足と臀部(でんぶ)に命中して重傷を負った。東風平の壕(ごう)で知り合った家族を下士官が「狭いから」と追い出し、砲弾の犠牲となった。<この時ほど怒りを感じたことはなかった>。摩文仁の壕で水をくみに出た軍属の女性教師は重傷を負うと、自爆死した。

 隊長から「夜間敵中突破か、海岸線を泳いで抜けるか、北部へ脱出」と命令を受けた。周辺は数万の米軍が押し寄せ、南は海。敦賀商時代に4~5時間の遠泳をしていた松木は海に出た。時折、岩で休みながら、西海岸を北上していった。港川まで来ると、米軍が機関銃陣地を設け、海に向かって撃ち続けていた。途方に暮れ、疲労から岩の上で眠ってしまった。

 「ヘイ!」という怒鳴り声で目が覚めると、小銃を向けた米兵10人に囲まれていた。6月25日、捕虜となった。

 屋嘉の収容所は二重の有刺鉄線が張り巡らされていた。やぐらでは機関銃を備えた米兵が監視していた。「松本」と偽名でいたが元阪神電鉄社員に見破られ、所内野球大会の指導者となった。<ニュースは内地の暗いことばかりで、帰っても一体どうなることかと心配だったが、プロ野球の東西対抗が挙行された(11月23日・神宮)と聞いたときだけは、とてもうれしかった>。戦時中、禁じられた野球に平和を思ったことだろう。

 46年3月4日の送還船で内地へ帰った。9カ月の捕虜生活だった。

 沖縄戦を「鉄の暴風」と表現したのは松木が監督で阪神復帰した50年に出た書籍だった。万死に一生を得た松木は自身の兵隊姿の写真に<ノー・モア 鉄の暴風>と書き添えた。=敬称略=(編集委員)

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