【内田雅也の追球】田淵の「クスノキ弾」――阪神永遠のテーマ「右の大砲」

[ 2019年11月8日 08:00 ]

かつてクスノキが立っていた安芸市営球場左翼場外の崖
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 そこにはかつて、大きなクスノキがあった。安芸市営球場の左翼場外の山肌が見える崖のてっぺん辺りに立っていた。

 「そのクスノキまで飛ばしていたよ」と長年、安芸市職員としてキャンプを見守ってきた森田修一(75)が懐かしんでいた。田淵幸一(スポニチ本紙評論家)阪神キャンプ時代の特大アーチの話だ。

 田淵が法大からドラフト1位で阪神入りした1969(昭和44)年の記事を読み返してみた。安芸入り初日の2月5日、小雪ちらつく寒さのなか、打撃投手を務めた投手兼任コーチ・村山実(後に監督)から、左翼場外への一撃を放っている。本紙阪神担当・沢武三が<左翼の後ろ、削り取られた山肌に直接ぶつける130メートルは飛んだであろう大アーチ>と記した。13日、初のシート打撃では石床幹雄から場外の駐車場まで飛ばし<超ド級145メートルアーチ>と大見出しが踊った。田中二郎が<ファンからしばらく拍手が鳴りやまなかった>と興奮を伝えている。

 こうした大アーチのなかに「クスノキ弾」もあったわけだ。クスノキは後に、崖崩れを案じた補強工事で取り払われた。森田は言う。「あの木を残しておくべきだった。あそこまで飛ばしたんだという記念になるし、今の選手たちの励みにもなるんじゃないか」

 確かに残念である。田淵は法大時代、全日本の一員として、フィリピン・マニラのリザール記念球場で特大弾を放ち、打球落下地点に名前が刻まれている。クスノキはそんな記念碑的な名物となるはずだった。

 今も連日、球場を訪れる森田から、そんな話を聞いた後だった。昼食後、メイン球場では特打が行われた。大山悠輔、中谷将大、陽川尚将、江越大賀と右の長距離打者5人と左の高山俊が交代で打ち込んでいた。

 左翼場外の通路から眺めていた。阪神担当時代に自身で原稿にした芝生席後方の「フィルダー・ネット」直撃や「ディアー・ネット」に掛かる打球はあった。だが「クスノキ」はまだその後ろだ。結局1本も「クスノキ弾」はなかった。

 左翼に向け浜風が吹く甲子園球場を本拠地とする阪神にとって、右の大砲育成は永遠のテーマである。野村克也は阪神監督時代、オーナー・久万俊二郎に「4番打者は出会うもの」と補強による獲得を訴えた。田淵や掛布雅之とは出会いだったかもしれない。だが育てた4番がいてもいい。そのための練習である。=敬称略=(編集委員)

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