内田雅也が行く 猛虎の地<7>二河川河川敷

[ 2018年12月8日 09:30 ]

「ミスター」生んだ河原と工廠

藤村富美男が幼少のころ遊んだ二河川河川敷。左は生家のある下山手地区、右に二河野球場
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 古く軍港でひらけた海軍の街、広島県呉市にはかつて「野球市」の異名があった。

 1872(明治5)年、米国人教師ホーレス・ウィルソンが第一番中学(今の東大)で初めて野球を伝えて以来、日本の野球は高等教育機関で学んだ教師らが各地方の学校で広めていった。

 だが、呉市では様相が異なっていた。市立中学ができるのは1907(明治40)年と遅かった。上級学校のなかった呉では軍需工場の工員の間で野球が広まった。後に戦艦大和の建造で有名な呉海軍工廠(こうしょう)の将校らが学生時代に知った野球を勧めたのだった。

 文献『呉野球史』には<大正となって以来恰(あたか)も雨後の筍(たけのこ)に等しい劇増(原文ママ)を示した>と工場別に「扶桑」「ヂャイアント」「船友」……など50以上のチーム名が列挙されている。

 後の「ミスター・タイガース」藤村富美男はそんな時、そんな街に生まれた。1916(大正5)年8月14日、呉市下山手町(今の呉市山手)に生まれた。4男4女8人きょうだいの7番目。父・鉄次郎も2番目の兄・清章も呉海軍工廠の工員だった。特に清章は先に書いた「船友」の花形選手。1927(昭和2)年に始まった第1回都市対抗野球大会に「オール呉」の6番・二塁手として出場している。

 今年秋、その生家周辺を歩いてみた。すぐそばを二河(にこう)川が流れている。向こう岸にはかつて南海(現ソフトバンク)がキャンプを張った呉二河野球場があった。

 藤村が引退後、評論家として在籍した報知新聞で「藤村番」も務めた南萬満(2010年他界)の著書『真虎伝』(新評論)にある。この二河川河川敷で幼少期の藤村は野球を楽しんだ。<富美男の子供のころは、広い河原があって、そこで未来の名選手たちが野球をやっていたそうだ>。二河小、同高等小時代、藤村は主に清章から野球を教わったという。清章は後に藤村が阪神入りする際、マネージャーとして一緒に入団している。

 藤村が高小卒業後、地元・呉の大正中(後に呉港中=現呉港高)に進んだ。<なぜ大正中へ進学したのかはハッキリしない>と『真虎伝』にある謎の答えが十乗院潤一『ミスター・タイガース 藤村富美男伝』(データハウス)にある。<彼は小学校の高等科を出て父や兄が勤める海軍工廠に就職するつもりでいた><ちょうどその頃、大正中学の監督から「藤村君。大正中学に来て私たちと一緒に野球をしないか」と声をかけられた>。

 後にエース、主砲として春夏計6度、甲子園に出場。34年夏には全国制覇を果たす藤村の運命の分岐点だった。=敬称略=(編集委員)

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