都城エース田口氏 清原氏の衝撃を回想 ファウル打たれた瞬間「こいつは天才だ」

[ 2018年5月9日 11:31 ]

阿久悠さんが見たあの夏の記憶

1985年、夏の甲子園で優勝し握手を交わす桑田氏と清原氏
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 1983年夏から甲子園大会に5季連続出場したPL学園(大阪)でエース桑田真澄は20勝、4番・清原和博は13本塁打を記録した。「KKコンビ」の凄さを語る元高校球児がいる。都城(宮崎)で84年春夏に対戦した田口竜二氏だ。同年ドラフト1位で南海(現ソフトバンク)に入団した1メートル85の長身左腕投手。当時はPLが関西のチームにも関わらず、優勝候補は「東のPL、西の都城」と報道されたほどだった。

 そんな中、春の清原との初対戦。「凄かった。僕はそれまでの野球人生の中で野球の天才だとずっと思ってきたんだけど、清原にファウルを打たれた瞬間、こいつは野球の天才だと思った。自分は野球の秀才だと。その時初めて思った」と振り返る。打球の速さに度肝を抜かれ「打球の音が違うし、こういうやつが天才なんだ、1個下でこんな凄いやつが世の中にいるんだって思った」と笑顔で懐かしんだ。

 春は延長11回に0―1のサヨナラ負け。夏はチームが6失策と自滅し、1―9の大敗だった。清原には2試合で8打数2安打。それでも「投げたら分かる。清原は異次元。懐も深いし、どこ投げても打つぞみたいな雰囲気。高校史上一番凄い打者だと思う。甲子園に出てくる好投手を1年のときから打っている。プロ1年目で3割30本を打ったのは清原だけ。力の差があるから互角に試合ができればいいなと思ってやっていた」と明かした。

 桑田についても強烈な印象が残っている。「コントロールもいいし、ブルペンで先発じゃないのにキャッチボールしていたときに、もの凄い球を投げていた。こいつもやっぱり凄いなって。彼は4月1日生まれだから1日遅かったら中学3年生。天才ですよ」と話した。

 宮崎県勢初の全国制覇は「KK」という怪物に阻まれたが、「僕がドラ1になれたのは彼らのおかげ。PLと試合したおかげでいろんなところから注目された。感謝している。この話をすると“あの時の”と言われることも多々ある。特に春のあの試合」と話す。プロでの登板はわずか1試合、1イニングだった。「それまでプロ野球選手になるという思いで一生懸命だったけど、なった瞬間に、自分のやるべきことを忘れてしまった。高校のときは、プロに行くって決めてるから、打たれようが負けようがモチベーションは下がらなかった。プロで、自分に“想い”がなかったからこういう結果になったんだ、ということに気づけたことは大きい」。現在はスポーツ選手のセカンドキャリアを支援する仕事に携わっている。(渡辺 剛太)

 ◆田口 竜二(たぐち・りゅうじ)1967年(昭42)1月8日生まれ、広島県廿日市出身の51歳。都城のエース左腕として84年春は4強、夏はベスト16でPL学園に敗退。同年ドラフト1位指名を受け南海に入団。現在は白寿生科学研究所人材開拓課課長。左投げ左打ち。

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