復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

夜9時半消灯でも、家族に反対されても…バットを振り続ける

[ 2011年6月11日 06:00 ]

避難所生活が続く村上勇哉選手はチーム練習後も素振りを繰り返す

 東日本大震災の発生から11日で3カ月を迎える。壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市では、いまだに1400人が避難所生活を送っており、高田高校野球部の村上勇哉君(2年)もその一人。不自由な生活の中で必死に野球に打ち込んでいる村上君の姿を中心に、3カ月たってもなお避難所生活を続ける人々の「今」に迫った。

 壊滅的な被害を受けた陸前高田市沿岸部に向かう国道340号。その道路沿いには津波にのみ込まれた車の残骸や半壊した家屋など、依然として目を覆いたくなるような惨状が残っている。それでも町中を歩く人の数は増え、荒涼とした大地の整地も進んできた。悪夢の3・11から3カ月。ようやく復興の息吹が感じられるようになってきた。

 高田高校の野球部にもうれしい出来事があった。グラウンドには仮設住宅が建っているため練習場所を求めて県内を転々とする日々に変わりはないが、最近になって室内練習場の電気が回復したのだ。「これでバッティングマシンも使えるようになりました。練習メニューが限られてましたから良かったです」と大久保晋作副部長。これまでやりたくてもできなかった打撃練習に喜々として取り組む部員の姿をネット越しに優しく見つめた。

 その中でひときわ、熱心に練習に取り組んでいたのが捕手の村上勇哉君。現時点でまだベンチメンバー入りはしていないが、失った時間を取り戻そうと懸命に練習を重ねている。「避難所に帰ると消灯が午後9時30分なので、素振りしたくてもできないです」。全体練習後も時間の許す限り、必死の形相でバットを振った。

 震災から3カ月経過したというのに、津波で自宅を流された村上君一家は、いまだに高田一中の体育館で避難所生活を続けている。朝は午前7時30分に避難所を出て大船渡市にある仮校舎に向かう。練習を終え、戻ってくるのが午後8時30分前後。そこから急いで近くの銭湯「復興の湯」で風呂に入り、食事をしたらすぐに消灯時間だ。「学校の宿題はできないですし、プライベートな休める場所はないです」。震災以前はキャッチャーミットを手に自室で寝転びながら、天井に向かって球を投げては捕る練習をするのが楽しみだった。だが今は眠くなくても午後9時30分には目をつぶらなくてはいけない日々。「早く津波が来る前の状況に戻ってほしい」は偽らざる本音だ。

 震災直後。両親からは「野球を続けるのは諦めてほしい」と懇願されたという。それでも首を縦に振らなかった。「炊き出しの手伝いとかがあったので、なかなか練習に行けないこともありました。でも、甲子園という目標は絶対に譲れませんでした」。話し合いを続けた結果、最終的には両親も「勇哉が野球をしている姿を見たい」と賛同してくれた。

習後。ユニホーム姿のまま避難所に戻ると周りの人から「きょうもお疲れさま」と声をかけられるという。「僕だけ好きなことをしていていいのか、と考えることもあります。だからプレーで恩返しがしたい」。避難所での生活がいつまで続くのかは分からない。それでも、村上君の野球に懸ける情熱はいささかも衰えていない。

 災直後。両親からは「野球を続けるのは諦めてほしい」と懇願されたという。それでも首を縦に振らなかった。「炊き出しの手伝いとかがあったので、なかなか練習に行けないこともありました。でも、甲子園という目標は絶対に譲れませんでした」。話し合いを続けた結果、最終的には両親も「勇哉が野球をしている姿を見たい」と賛同してくれた。

 練習後。ユニホーム姿のまま避難所に戻ると周りの人から「きょうもお疲れさま」と声をかけられるという。「僕だけ好きなことをしていていいのか、と考えることもあります。だからプレーで恩返しがしたい」。避難所での生活がいつまで続くのかは分からない。それでも、村上君の野球に懸ける情熱はいささかも衰えていない。

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