復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

一回り大きくなった体と強くなった故郷への思い

[ 2012年1月21日 06:00 ]

室内練習場に隣接する仮設住宅の前で素振りする野田

 高校生活初めての冬景色は、彼らの目にどう映るのだろう。震災当時、中学3年生だった19人の1年生部員。昨年3月9日に高校入試を終え、希望を胸に暖かな春を迎えるはずだった。しかし未曽有の大災害は、重い選択を彼らに強いた。野田健斗内野手は、不便さに負けず希望校への進学を決断。佐藤仁内野手は荒れ果てた故郷を憂い、共に生きていくことを選んだ。それぞれに秘めた思いを抱えながら。少年たちの決意は、復興へ歩む地の大きな希望となる。

 一回り大きくなった体に、高田ブルーのユニホームがなじんできた。幼さが残る顔つきも、練習中は鋭く変わる。高校生活初めての冬は、人生で一度きり。その意味を知るからこそ、つらい練習にも一段と気が入る。

 野田は入学時に比べ、体重が10キロ増えた。「高校野球も頑張りたくて、高田高校を選びました」。自宅は大船渡市北部で限りなく釜石市に近い、三陸町吉浜地区。漁師の家庭に育ち、自分もその跡を継ぐことを決めた。「じいさんからは“おまえはうざね(弱音)吐くから無理だ”と言われたけど、内心はうれしそうでした」。高田高校は海洋システム科を設け、野球部の高い評判も聞いた。母校・吉浜中から進学した例はなかったが、親類の家が陸前高田市にあった。下宿をして通学するつもりだった。

 卒業式を翌日に控えた3月11日、東北の太平洋沿岸部を大津波が襲った。野田の自宅や家族は無事だったが、漁船2隻が損壊。ワカメやホタテなどの養殖場も消えた。それは漁業で生計を立てる一家にとって、一切の収入を失うことだった。「絶対に野球は諦めなくちゃいけないと思った。自分だけ好きなことをしている場合じゃない」。途方に暮れていた時、父・邦広さん(44)が「お金の心配はするな。野球を続けろ」と声をかけた。「うれしくてうれしくて仕方がなかった。あんなにうれしかったことは今までないと思う」

 下宿を予定した親類宅はなくなり、現在は自宅からバスで約40分かけて通学する。そのことを大変だとは思わない。野球を続けられる喜びの方が、はるかに大きいことを知ったから。

 佐藤仁は「変顔」と言われる面白い表情で、上級生を笑わせるのが得意だ。「震災を経験して、高田への思いが強くなりました」。震災時は、岩手県内陸の強豪校への進学が決まっていた。陸前高田市の市街地・高田町にあった自宅を失い、現在は横田町の仮設住宅で暮らす。最愛の祖父母も津波に奪われた。「両親は“そのまま進学しても高田に残ってもいい。おまえの好きにしなさい”と言ってくれた。高田高校を受け直したのは自分の意思です」

 2次募集で海洋システム科を受験。震災から60日後の5月10日に入学式を迎え、高田高校の一員となった。「最初は気持ちの切り替えが難しかったけれど、両親が励ましてくれた。今は全然後悔していない」。決断が間違っていたとは思わない。どこにいても、自分次第で頑張れることを知ったから。

 村上莉玖(りく)は1年生のまとめ役を務め、同じ遊撃手で気仙中の先輩でもある、佐藤央祐(ようすけ)主将(2年)を目標とする。熊谷昭慧(あきさと)は「目的意識を持って、もっと成長したい」と黙々と練習に励む。高原祐太朗は持ち前の明るさで、率先して声を出す。吉田康平は「入学後に比べて、練習に集中できるようになりました」と振り返る。

 抱える事情も歩んだ道も19通り。19人が19色の個性を持つ。それでも、縁があって出会えた大切な仲間。若い彼らに後ろを向いている時間はない。信じて進めば、道は開けることを知ったから。

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