復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

仲間が高田がボクの宝 中尊寺からの100キロで再認識

[ 2011年11月24日 06:00 ]

川村ら高田高ナインは世界遺産の平泉・中尊寺金色堂で必勝祈願し、スタートに向かう

 100キロ先のかなたで何が見えるのだろう。高田高校野球部の毎年オフの恒例行事「100キロボランティアウオーク」が行われた。世界文化遺産に登録された岩手県平泉町から大船渡市の高田高校仮校舎まで約100キロの道のりを、2日間にわたって歩き通す過酷な試み。金色堂などの文化財で著名な中尊寺から始まったウオーキングを通じ、ナインは自分を見詰め、仲間と語らい、そして一回り成長する。

 気温4度。晴れ。ほぼ無風。世界遺産の街から、高田高校野球部の長い旅が始まった。「これをやり遂げると生徒は確実に変わります」と佐々木明志(あきし)監督(48)が言う「100キロボランティアウオーク」。ただ歩くだけではない。周囲のゴミを拾いながらの道中だ。今年で4回目の恒例行事だが今回は東日本大震災で受けた支援への感謝の思いもボランティア活動に込める。

 金色堂前での出発式。中尊寺の菅野澄順(ちょうじゅん)執事長から激励を受けた高田高校野球部は毛越寺(もうつうじ)に移動し、藤里明久(みょうちょう)執事長の法話を聴く。世界遺産からのスタートだった。

 初日は平泉町から、国道284号線を一路、一関市室根町まで約50キロ。ひたすら歩き、ゴミを拾い、時に走る。すぐに全身から汗が噴き出す。1キロを歩くのに10分間が基本的なペースだからかなりの速足だ。30キロを過ぎると疲労の色が濃くなる。上り坂はきつい。下り坂は楽そうに思えるが、足に体重がかかって負担が増える分、もっときつい。歩道の端など、わずかな段差さえも乗り越えるのが難しくなる。午後からは天気が崩れ、雨になった。カッパを着て歩く。気温が一段と下がった。

 「きついはきついけど、みんなと一緒だがら」

 こう話したのは2年生の三塁手・川村拓也だ。東日本大震災直後には転校も真剣に考えた。なぜなら「野球ができないなら高田高校にいてもしようがねえから」だった。震災直後は避難所で約2週間を過ごした。何もやることがない。ストーブのそばで背中を丸めてひたすら漫画を読むだけの日々。体を動かすこともできず、不満ばかりが募った。「とにかく(精神的に)疲れていた。あの頃は。なんもやるごどはねえし。カップ麺とか、食うものはあったけど、食ってるだけじゃ、なんもおもしぇくねがった」

 岩手県内陸部に親戚が住んでいる。転校しようと思った。しかし思い直したのは大切な友人が野球部にいるから。「あのバカどもと離れるのは、ちょっと嫌だった」は極端な照れ屋の川村らしい言葉だった。今は勝負強い打者になることが目標だ。野球と仲間があったから川村はここにいる。1日目のゴールも近づいた午後5時すぎ。25キロすぎまで選手の列の後方にいた川村はペースを上げ、先頭集団にいた。

 着実に一歩ずつを積み重ねることが結局は、一番速い。少し休めばどんどん置いて行かれる。しかし、やる気になれば、多少の寄り道や回り道は必ず取り返せる。歩くことは人生そのものだ。

 1日目が終わった。約50キロを歩き終えたナインが次々と宿舎にたどり着いた。雨に濡れ、体は冷え切った。足を引きずり、筋肉痛に悲鳴を上げた。それでもみんな笑っていた。仲間たちと歩く道のりはあと半分残っている。 

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