復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

高田 初戦敗退も戦い続く…佐々木監督「何ら恥じることはない」

[ 2011年7月17日 06:00 ]

<盛岡工・高田>長くて短い夏が終わった…盛岡工に敗れ肩を落とす高田ナイン

岩手大会2回戦 高田2-5盛岡工
(7月16日 森山)
 失った時間はあまりにも長かった――。東日本大震災で校舎が壊滅的な被害を受けた高田高校は、2回に2点を先制したが盛岡工に2―5で逆転負け。震災以降、過酷な環境に負けることなく、甲子園を目指してきたが、初戦突破はならなかった。あの3・11から127日。高田高校野球部の長くて、短い夏は終わった。新チームは、17日に活動を開始する。次の夏へ。故郷の人々とともに一歩ずつ歩く。

 4カ月間、我慢してきた涙が一気にこぼれた。試合後の最後のミーティング。円陣を組んだナインのむせび泣く声が響き渡る。佐々木明志(あきし)監督は優しい口調で語りかけた。
 「いろいろなことを背負わせて苦しかったと思う。でも力出し切ったよな。やることやったもんな。何ら恥じることはない。間違いなくおまえたちは将来の高田を背負っていくんだから、これからも頑張ってくれ」
 観客席はスクールカラーのスカイブルーで埋まった。2回には県内屈指の左腕の盛岡工・藤村から滝田の左前打などで2点を先制。初戦突破の期待を抱かせた。直後に同点とされ3回に勝ち越しを許したが、ハンデを感じさせない健闘ぶりに多くの拍手が送られた。

 震災では部員の3分の1の自宅が流された。いまだに親が行方不明の部員もいる。活動を再開したのは震災から1カ月以上が経過した4月23日。グラウンドには仮設住宅が建ったため、他校のグラウンドや球場を転々としながらこの日に備えた。しかし、野球に集中できる環境ではなかった。大和田将主将は「グラウンドがなくて大好きな野球を(存分に)できなかったのが一番の心残り」と泣きながら話した。

 ベンチには両親が被災したため小山(栃木)へ転校した菅野明俊(3年)の家族の写真が置かれていた。その菅野とは今月2日にお互いの遠征地の宮城県で震災後、初めて対面。今夏の合言葉を「甲子園で再会」とすることを決めた。招待試合をしてくれた桐生商(群馬)、小山に転校した菅野らともう一度会うために掲げたテーマ。しかしその願いはかなわなかった。大和田将主将は「負けてしまったので明俊(菅野)に報告しづらいです。自分たちの分も頑張ってほしい」と言う。

 陸前高田市にあって、高田高校、とりわけ野球部は特別な存在だ。市民の誰もが愛し、応援する。88年の甲子園出場はいまだに語り草。当時の甲子園メンバーは市内では有名人だ。佐々木正幸OB会長は「校舎が大船渡に移っても陸前高田の人は高田を応援してくれる。だから頑張らないと」と話す。また市内の避難所で暮らす女性は「この辺の男の子はみんな高田で野球をやりたがる。野球部のことはみんな気にしてるの」と言った。孫を津波で失ったという、その女性は高田高校の生徒たちを「本当の孫みたいに思える」と続けた。

 陸前高田市は震災で県内最多の1531人の死者を出した。市内にはいまだがれきが残り、避難所生活を余儀なくされる人々がいる。復興への道のりは長く、険しい。しかし、彼らがいる。

 東日本大震災を乗り越え、必死に野球に打ち込んできた彼らがいる。故郷の将来を担う彼らがいる。復興へのプレーボールは、既にかかっているのだ。

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