復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

おばあちゃんが座り込んだから生きられた

[ 2011年12月14日 06:00 ]

津波から逃れた時の状況を語る高田高校の88年甲子園出場メンバー・村上知幸さん

 1988年に高田高校野球部が夏の甲子園に出場した際のメンバーに東日本大震災当日の出来事を聞いた「3月11日の記憶」。今月は陸前高田市役所企画部企画政策課に勤務する村上知幸さん(41)に聞いた。

 生死を分けたのはちょっとした偶然だったという。「そのおばあちゃんが地面に座り込まなかったら…。今、私はここにいなかったはずなんです」と村上さんは振り返る。震災発生直後、村上さんは市庁舎近辺にいた住民らの避難誘導を行っていた。その時だ。近くにいた高齢の女性が路上に座り込んでしまったという。

 「もう逃げられないから…」と言う女性を村上さんは抱きかかえて市庁舎まで走った。たどり着いた時、津波が押し寄せてきた。「階段を駆け上がったときに何人かの方を追い抜いたんです。追い抜かれた方たちがどうなったかは…分かりません。たぶん…」。水位は急激に上がり、容赦なく人々をのみ込んだ。最終的に水は4階建ての市庁舎屋上まで達した。

 村上さんとともに避難誘導を行っていたのは3人の職員だった。「そのうち1人は私と同じように(高齢者を)抱っこして走っていったから助かった。誘導を続けていたら自分も死んでいたでしょう」。陸前高田市職員113人の命が東日本大震災で奪われた。

 村上さんは高校時代は強打の外野手だった。当時のチームは本塁打を放っても無視され、次の打席で送りバントを決めて初めて褒められるような雰囲気だった。4番打者として活躍したが、1988年夏の甲子園、滝川二戦には右肩などの故障のため出場できなかった。背番号「9」の一塁ベースコーチだった。

 震災後は陸前高田市の広報担当として多忙を極めた。現在は戸羽太市長の秘書も務めている。「自分たちは生かされているんだなって、職員全員が思っています」。村上さんはこう言った。

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