復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

菅野 3年生送別試合で友に、後輩に“サヨナラ”弾

[ 2011年11月23日 06:00 ]

震災後初めて高田高校のユニホームを着てプレーした菅野明は、サヨナラ打を放ち後輩の浦田と熱い抱擁

 涙の夏の敗戦から4カ月。このたび大船渡市内の仮校舎グラウンドで高田高校野球部の3年生送別試合が行われ、3年生チームと下級生チームが対戦した。東日本大震災の影響で栃木・小山高校へ転校した菅野明俊(3年)も参加。笑顔で仲間との再会を果たした。震災の激動を乗り越え7月の岩手県大会を迎えたが、惜しくも初戦敗退で高校野球を終えた3年生部員。たくさんの思い出を胸に、9人はそれぞれに選んだ道を歩んでいく。

 口をついて出るのは感謝の言葉ばかりだった。「送別試合を楽しむことができた。ありがとう」「最後まで大好きな野球をやることができてうれしい」「野球部の同級生は一生の宝物です」。夕日に染まるグラウンド。その光に照らされた顔はみんな笑顔だった。送る側も送られる側も、野球が好きな気持ちは一緒だから。たとえ離れていても、心はつながっていると分かっているから。涙は必要なかった。

 3月11日の大きな揺れに遭遇してから、高田高校野球部の生活は一変した。校舎は津波で壊滅的被害を受けた。日々を過ごした陸前高田の街は廃虚と化し、仮校舎となった旧大船渡農の建物も老朽化のため大規模な修繕が必要だった。

 「最も被害を受けた高校」として、震災直後から多くの取材要請が押し寄せた。尋常でない注目。「支援してくれた人たちに元気な姿が届くなら」と報道陣を受け入れた佐々木明志(あきし)監督(48)でさえ、「想像以上の数で、大人の自分でさえ参ってしまいそうだった」と振り返る。前主将の大和田将人(3年)も、「支援してくれた方々に恩返ししたい」「高田の人に勇気を与えたい」と繰り返した。その思いに偽りはない。だが、練習だけに集中できない状況に平常心を失うこともあった。

 だからこそこの日、純粋に野球が楽しめることがうれしかった。ノック前、大和田将は仲間に「久しぶりの大好きな野球、心から楽しもう!」と声を掛けた。試合中には「きょう、本当に楽しい」と何度もつぶやいた。 菅野明もまた、この日を心待ちにしていた。震災で両親を失い、栃木県で暮らす親類宅に身を寄せた。混乱の最中、仲間に別れのあいさつもできないまま離れた故郷。グラウンドに向かう途中、車を運転する佐々木監督に頼み、陸前高田市を通った。「思い出巡りではないですけど、やっぱり見ておきたいなと思って」。何もなくなってしまっても、大好きな場所に変わりはなかった。

 転校先の小山では最初、震災で被害を受けたことはあえて話さなかったが、「そういうことって自然と伝わってしまうんですね。でもみんな、特別扱いすることもなく温かく迎え入れてくれました」。新しい仲間への感謝の気持ちから、この日は小山のユニホームを持参した。悩んだ末、久々に袖を通した高田高校のユニホーム。照れくさかったけど心地良かった。

 日は沈み、終わりの時間が迫る。送別試合最後の打席は菅野明だった。浦田航希(2年)のこん身の直球は、そのバットではじき返され、大きく弧を描いて左翼線間際に向かった。転々と外野を転がる打球。野手が打球を追いかける間、菅野明は二塁を回る。「明俊さーん、走れー!」。下級生ベンチから声が飛んだ。三塁に到達する。「もう少しだ!」「頑張れー!」。仲間が待つ本塁に頭から滑り込む。歓喜の輪が菅野明を包んだ。野球の神様が起こした、ほんの小さな奇跡。苦しみの果てに大きな喜びがあることを、彼らはもう十分に知っている。

 ≪浦田「本気で投げた」≫菅野明にランニング本塁打を浴び、“助演男優賞”となった浦田は「打たれたくないと思って本気で投げたんですけど」とうなだれた。菅野明がホームインしてから部員全員で行った胴上げには参加せず、マウンド上にうずくまったが「明俊さんが喜んでる姿を見られて、全然悔しくなくなりました」と笑顔。試合後に2人は熱い抱擁を交わし、お互いの健闘を称えた。

 ≪27歳部長も寄る年波には勝てず?≫3年生チームの助っ人として大久保晋作副部長(27)が「9番・右翼」で先発出場した。村上渉が大学受験のため参加できず、3年生チームが8人だったため急きょ決定した。高校時代はエースとして活躍した大久保副部長だったが、この日は2打数2三振と往年の輝きは見られず。「高校生の球は速いですね」と寄る年波には勝てない様子だった。

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