女子バスケ・米国の強さの原点 45年前に経験した五輪黒星デビューの相手は日本

[ 2021年8月8日 15:23 ]

女子バスケットボールの決勝を戦った米国と日本(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1976年7月19日。私は高校バスケの福岡県大会を目指して最後の練習に汗を流していた。その1週間後、準々決勝で強豪だった福大大濠に善戦むなしく敗れてインターハイ出場の可能性を断たれることになるのだが、そのときカナダのモントリオールでは初めて五輪に採用された女子バスケットボールが“開幕戦”を迎えていた。

 参加したのはソ連、米国、ブルガリア、チェコスロバキア、カナダ、そして日本。米国は7月19日の初戦で71―84で敗れている。リーグ戦のみによる順位決定で、米国はこのあとソ連にも敗れ、3勝2敗で2位となるのだが、五輪通算71勝3敗の中の2敗がこの大会で喫したものである。

 東京五輪の決勝で米国は日本を下して7連覇を達成。五輪での試合では通算55連勝という圧倒的な力を示しているが、その五輪での第一歩は黒星、しかもその相手はこの日と同じ日本だった。

 敗北は強化の始まりでもあった。1992年のバルセロナ五輪の準決勝で、旧ソ連に所属した国々の選手で構成された統一チーム(CIS)に73―79で敗れたがこれが五輪での最後の黒星。連勝は直後の3位決定戦でキューバを88―74で破ってから今もなお続いている。

 米国は強い。日本が走り、動き、必死に守っても東京五輪では2試合とも敗れた。しかし強さを生み出すに至ったチームの歴史の原点は五輪デビュー戦で喫した日本戦にあることは間違いはない。「君の夢よ 叶えと願う」。嵐が歌う「カイト」のように、45年前は未来への“変革”を願う日々だったと思う。

 女子の米国代表を率いていたのは大学でもWNBAでも活躍したドーン・ステイリー監督(51)。168センチと小柄ながら選手としても指揮官としても五輪優勝を経験しているチーム・リーダーだ。しかし米国がCISに敗れた1992年のバルセロナ五輪では代表選考から漏れた。本人によれば説明された落選の理由は「サイズが小さい」と「国際経験がない」の2つ。まだプロリーグ(WNBA)はなく、行き場を失った彼女は地元フィラデルフィアのデパートで働き、来る日も来る日も衣料品売り場で商品を折りたたむ作業を繰り返していたと言う。その後フランス、イタリア、ブラジル、スペインと渡り歩いたが、米国女子バスケが45年前の日本戦での黒星からはい上がってきたのと同様、ステイリー監督の五輪での原点もまた“挫折”から始まっていた。

 「日本はタフなチームです。でも選手たちはよく相手をかき回しました。楽に3点シュートを打たせなかったし、ディフェンスではサイズの大きな選手を絡ませることができました」

 予選リーグで勝ったときにステイリー監督は日本戦での感想をこう述べていた。その戦略は決勝でも変わらず、162センチの町田瑠唯(28)に対する“セカンド・ディフェンダー”として203センチのブリトニー・グライダーや193センチのエイジャ・ウィルソン(25)を再三にわたって絡ませた。日本をトム・ホーバス監督(54)がまとめあげたように、米国では“失意の五輪”を経験しているステイリー監督が「ワンチーム」に仕上げていた。

 最後は点差が開いたこともあって日本はベンチ入りしていた全12選手が出場。誇っていいのは、米国に無得点だった選手が3人いたのに対し、日本は12人全員が得点部門に数字を残したこと。そこには「みんなで最後まで頑張る」という強い意志と決意と実行力がにじみでていた。

 日本は本当によく頑張ったと思う。ただ初めて経験した五輪決勝での敗戦を、45年前に米国が日本戦で経験したのと同じように未来につなげる糧にしてほしい。

 どん底からはい上がってきた絶対女王と果敢に戦った挑戦者。東京五輪・女子バスケットボール決勝は、45年前の“第1戦”からずっと見えない糸でつながっていたように思う。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった2018年の東京マラソンは4時間39分で完走。

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