地方からたくさんのメダルを!加藤宏子さん「私が切り開いた」日本各地に才能が点在する今こそ

[ 2019年5月15日 10:00 ]

2020 THE YELL レジェンドの言葉

表彰状を背に写真パネルを持つ加藤さん(撮影・久冨木 修)
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 令和こそ地方の時代に――。55年前の東京五輪当時、首都東京への一極集中は今よりもっと進んでいた。代表選手のほとんどが東京を拠点とする中、生まれ育った金沢にこだわり、地方から五輪を目指して見事に銅メダルを獲得したのが、体操女子団体の加藤(旧姓辻)宏子さん(80)だ。地方のハンデを乗り越え、歴史に名を刻んだレジェンドから、後輩たちへのエールを伝える。

 今でこそ東京―金沢間は新幹線で2時間半だが、当時は夜行列車で8時間もかかった。加藤さんは強化合宿のたびに往復16時間かけて上京した。「まだ戦争が終わって間もない頃でしょ。上野駅の周辺は混沌(こんとん)としていてね。もう怖くてずっと震えていましたよ」

 東京と地方の差は距離だけではなかった。国家事業としての五輪を控え、人も物も一極集中で発展し続ける東京に対し、地方は人も物も足りなかった。地元金沢の高岡町中で体操を始め、藤花高(現金沢龍谷高)ではインターハイ2連覇と若くして女子体操界のエースとなった加藤さんも、練習環境には恵まれなかった。

 「中学には跳び箱しかなかった。高校の平均台は長さが足りなくて大工さんに継ぎ足してもらいました。平行棒も男子用を大学からもらって、鉄工所に勤める同級生のお父さんに改良してもらったんです」

 指導者の岡田隆監督も元は飛び込みの選手。体操の経験は皆無だったが、その分、創意工夫にはたけていた。宙返りは猫を空中に放り投げ、どうやって降りてくるかを見て研究した。実際の宙返り練習では、ロープで体を宙づりにして同じ動作を何度も繰り返した。平行棒で逆立ちすると天井に足がぶつかってしまうと訴えると、監督が校長に掛け合い、天井に穴を開けてくれた。

 努力だけなら誰にも負けない自信があった。だが、56年メルボルン五輪の最終予選で当時17歳の加藤さんは落選、初の五輪出場を逃した。演技内容は誰が見ても一番の出来だった。「私が田舎の高校生だから落とされた…」。加藤さんにはそうとしか思えなかった。実際、当時の採点は10点満点制で、審判の主観で得点が左右されることは珍しいことではなかった。地方の無名の高校生が関東の有名大学生に勝つことは至難の業だった。

 それならばと加藤さんも都内の大学への進学を目指したが、家庭の財政的な事情で諦めざるを得なかった。地元の金沢大に進んだものの、女子体操部員は一人だけ。合宿のたびに上京する生活が続いた。「東京の練習場はきれいな道具が全部そろっていた。絶対に東京には負けない、地方でも頑張るぞと思いましたよね。結果的には東京に行かなくてよかったんだと思いますよ。女性同士だから人間関係が難しいし、引っ込み思案の私は、東京に行ったらそれだけで負けていたと思います」

 60年ローマ五輪は最終予選の前に右アキレス腱を負傷して断念。母校・藤花高の教員になり、「これが最後」と臨んだ64年の東京五輪でも、1月に再び左アキレス腱を断裂する重傷を負った。さすがに「これはもう駄目かな」と思ったが、1カ月後には退院。そのまま高知県の桂浜で行われた強化合宿に参加して周囲を驚かせた。地方のハンデと2度にわたる大ケガを乗り越え、三度目の正直で5月の最終予選を突破。ついに念願の五輪代表の座を手に入れた。代表は7人。加藤さん以外は、全員が都内の学生や職員だった。

 日本チームの目標は団体で前回ローマ五輪の4位を上回る3位に入ること。出場6選手の中で一番安定感があった加藤さんは1番手で起用され、チームに勢いをつける役目を担った。10月20日の前半規定はドイツに0・067のリードを許して4位。翌21日の自由でも加藤さんは4種目全てをノーミスでこなし、日本は逆に1・851の差をつけてドイツを逆転。悲願の銅メダルを獲得した。

 「自分の力を100%出せるように努力しました。でも、体操はチャスラフスカ(旧チェコスロバキア)が凄い人気で、私たちがメダルを獲ったのに記者さんたちはみんな彼女ばかり追いかけていて…」

 女子体操界初の快挙から55年が経過したが、いまだに加藤さんたち以外に五輪のメダルを手にした女子選手はいない。加藤さんは現在も各地で体操教室を開く。

 「女子の体操は昔から全然変わっていない。悪いところばかり引き継いでいるような気がします。でも、最近は東京だけじゃなくて、あちこちからいい選手が出てくるようになった。それは私が切り開いたのかなという自負はあるし、大事に育ててほしいと思います。せっかく日本でやる五輪なんだから、みんなで頑張りましょうよ」

 新しい時代の最初の五輪だからこそ、地方からたくさんのメダリストが生まれてほしい。それがレジェンドの一番の願いだ。

 <夫はメキシコ金 夫婦でメダリスト>加藤さんは東京五輪後に引退し、28歳の時に4つ年上の武司さんと結婚。武司さんは68年メキシコ五輪男子団体の一員として金メダルを獲得し、夫婦で五輪メダリストとなった。その後は湘北短大(神奈川県厚木市)の教壇に立ちながら国際審判員としても活躍。83年世界選手権(ブダペスト)や88年ソウル五輪などで審判員を務めた。現在も体操教室で指導し、週末にはジャズダンスを習うなど精力的に活動している。

 ▽“意外なメダル”64年10月22日のスポニチ1面はマラソンで銅メダルを獲った円谷幸吉で、女子体操は4面。「女子体操三位に」の見出しとともに「銅メダルが一応の目標であったものの、世界の女子体操界からみて『六位入賞できれば…』というのが日本女子に対する正直な声だった。それが銅メダル――その喜びもひとしおというもの」と意外なメダルだったことを伝えている。

 日本チームは小野清子(慶大勤務)、千葉吟子(日体大勤務)、相原俊子(日体大出)、池田敬子(日体大勤務)、中村多仁子(東京教育大)、そして辻宏子(藤花高教)の6人。団体戦は跳馬、徒手、平均台、平行棒の4種目で、金メダルはソ連、銀メダルはチェコスロバキア、銅メダルが日本(規定187・993、自由189・896、総合377・889)、4位ドイツだった。

 ≪「東京の恋人」チャスラフスカ魅了≫東京五輪の女子体操といえば多くの人が真っ先に思い出すのが名花とうたわれたベラ・チャスラフスカ。当時22歳だったチャスラフスカは個人総合と種目別の跳馬、平均台で金メダルを獲得。端正な容姿と優雅な演技で日本中を魅了し「東京の恋人」と呼ばれた。加藤さんも試合中は言葉を交わすことはなかったが、大会後はずっと親交を保ってきたという。名花は3年前に74歳で他界。今でも惜しむ声は多い。

 ◆加藤 宏子(かとう・ひろこ)1938年(昭13)11月29日生まれ、金沢市出身の80歳。旧姓・辻。藤花高(現金沢龍谷高)時代にインターハイ個人総合2連覇。62年世界選手権団体銅メダル。63年NHK杯優勝。88年ソウル五輪では国際審判員を務めた。現在は横浜市南区体操協会副会長。

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