×

【独占手記】ドーハから29年、元日本代表監督・オフト氏 森保監督は誰もがすぐ認めた静かなるリーダー

[ 2022年3月25日 06:30 ]

ハンス・オフト氏(本人提供)
Photo By 提供写真

 日本代表が7大会連続のW杯出場を決めたが、森保監督の偉業を誰よりも喜んでいるのは1993年10月28日にあの“ドーハの悲劇”を経験した仲間だろう。あれから29年。因縁の地であるカタール行きの切符を手にした教え子に日本サッカーリーグ・マツダの監督時代に素質を見抜いた、元日本代表監督のハンス・オフト氏(74)は当時を振り返り、スポニチ本紙へ独占手記を寄せた。あの時の選手、コーチからもそれぞれの“森保評”や祝福メッセージが届いた。

 マツダ時代の森保は、中盤でゲームの流れを読むことができ、守備、攻撃時のサポートがうまいファンクショナル(機能的)な選手だった。フィジカルがまだまだで、シャイで若かったこともあってプレーで主張することはあまりなかったが、「こうした方がいい」と教えると短期間で修正でき、成長を感じた。私が指導していた頃は途中出場が多かったが、年齢、能力、可能性を考えると将来はマツダの貴重な財産になると感じていた。

 92年3月に私が日本代表監督に就任した時、マツダ時代から気になっていた選手の一人だったので、代表選手としてリストアップした。代表発表までに3~4週間かけて当時、日本リーグの多くの試合を観戦したが、森保の成長を確認できたときは指導者冥利(みょうり)に尽きると感じた。物静かな性格だが、守備、攻撃を規律正しくオーガナイズし、積極的にサポートプレーができる。機能的でNo.6のポジション(今でいうアンカーのような位置)が任せられると思ったので選出した。その通り、日本代表で3、4試合やっただけで、彼がピッチ上で攻守のリーダーであることは、みんなが理解した。

 ドーハのW杯米国大会アジア最終予選は本当に残念だった。予選を突破できなかった原因は、最終戦でイラクと引き分けたことより、初戦でサウジアラビアと引き分け、第2戦でイランに負けたことが大きい。その時点で残り3試合に全勝し、勝ち点6(当時は勝利で2、引き分け1)を加えるという目的が明確になり、チームが一丸となれたが、勝ち点が足りなかった。しかし誰が悪いというわけではなく、我々にはその壁をチームとして乗り越えることができなかったということ。我々の能力が足りなかったから米国に行けなかっただけだ。

 今後の課題ということになるが、日本代表は以前と比べて多くの選手がヨーロッパでプレーするようになった。移動だけでも大変だが、コンディションのばらつきが懸念材料になっている。所属クラブでの出場状況によるコンディションやケガの状態を把握することは難しい。日本サッカー協会だけでなく、監督自身が各クラブとコミュニケーションを密に取り、FIFAのレギュレーションはあるものの、1秒でも早く試合の準備に取りかかれるよう各クラブに配慮を求められる関係づくりが不可欠だと考えている。また長距離移動を強いられるアジア予選を考えれば、海外でプレーする選手は不確定な要素が多いので、計算しやすい国内組の選手を起用することも大きなポイントになる。そのためにもJリーグのレベルアップも必要になる。いろいろなことを変えていくためにも、W杯カタール大会へのチケットを獲得できたことは、何よりもよかった。(元日本代表監督)

 ◇ハンス・オフト 1947年6月27日生まれ、オランダ・ロッテルダム出身の74歳。17歳でフェイエノールトとプロ契約し、左利きのストライカーとして活躍。2度の骨折で、76年に引退して指導者に。この年、オランダ遠征した日本高校選抜を指導した縁で82年にヤマハの臨時コーチに就任し、天皇杯優勝。84年からマツダコーチ、87年は監督を務めた。92年に日本代表監督。94年から磐田、京都、浦和の監督を歴任する。13年に日本サッカー殿堂掲額。

 ▽ドーハの悲劇 93年10月にカタール・ドーハで行われた94年W杯米国大会アジア最終予選最終戦のイラク戦。4戦を終えて首位に立っていた日本は勝てば初のW杯出場が決まる状況だった。前半5分にカズのゴールで先制した日本は、その後同点に追いつかれるも、後半24分にFW中山のゴールで再びリードする。しかし、後半アディショナルタイムに右CKから同点ゴールを許し、韓国に次ぐ3位へと転落。夢舞台への道を閉ざされた。

続きを表示

この記事のフォト

2022年3月25日のニュース