機内で落語を楽しみ、そして襲名を思う

[ 2017年6月27日 10:30 ]

八代目橘家圓蔵
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 【佐藤雅昭の芸能楽書き帳】北海道の稚内に出張した。飛行機に乗ると、いつもチャンネルを「演芸」に合わせてイヤホンで楽しむが、今回は行きも帰りも全日空便。ANAスカイオーディオの10チャンネル。流れてきたのは八代目橘家圓蔵と四代目柳家小せんの20年前のライブ音声だった。

 圓蔵は「穴泥」、小せんは「お血脈(けちみゃく)」と、いずれも得意とした噺(はなし)でご機嫌をうかがっていた。ともに鬼籍に入っているだけに、余計懐かしさが募った。

 「圓蔵」「小せん」ともに看板は小さくない。まず圓蔵。五代目、六代目は後に三遊亭圓生を名乗った名人だが、圓蔵の名前を大きくしたのは「品川の圓蔵」「品川の師匠」と呼ばれた四代目だろう。この人も「圓生」を襲名予定だったといわれるが、継ぐことなく、1922年(大11)2月8日に59歳で永眠。立て板に水のしゃべりで知られ、同じ時代を生きた芥川龍之介も「この人は全身が舌だ」と、それこそ舌を巻いたそうだ。

 「昭和戦前面白落語全集」と題したSPレコード復刻CD集に声が残っている。「吉原の一口話し」(2分40秒)と「昔の三大話し大根賣(売)」(1分48秒)という2題が収録されているが、確かに“能弁さ”は際立っている。

 月の家圓鏡時代に「ヨイショの圓鏡」として人気者になった八代目は82年に圓蔵を襲名。「圓鏡という名前を大きくしたのだから、圓蔵にならなくてもいいじゃないか」という声があったと聞く。寄る年波には勝てず、晩年は全盛期の畳みかけるような口演が難しくなって12年以降は高座から遠ざかっていた。

 女優の吉永小百合(72)に09年度の浅草芸能大賞が贈られることになり、浅草公会堂で行われた授与式に取材に出向いた。そこで、お祝いの一席を披露したのが圓蔵だったが、何をしゃべったのか残念ながら記憶にない。悲しいかな、この頃から精彩は失われつつあったように思う。15年10月7日に心室細動のため81歳で死去。今年三回忌を迎える。

 一方の小せんは、何と言っても初代が有名。遊郭通いが過ぎて腰が抜け、やがて失明。それでも昭和の名人と称される五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭圓生、林家彦六らに郭(くるわ)噺を伝授した功績は小さくない。「居残り佐平次」や「お見立て」などが得意で、1919年(大8)5月26日に肺炎のため36歳で死去した。初代小せんも「昭和戦前面白落語全集」に声が残っている。「専賣」という5分15秒の噺。今となっては貴重な資料だ。

 フジテレビ「お笑いタッグマッチ」などでお茶の間でも人気だった四代目小せんは06年10月10日に83年の生涯を閉じた。現在五代目が活躍中。圓蔵は空位のままだ。

 「どうして、この人が?」と首をかしげたくなる襲名もあれば、継いだはいいが、名前負けして看板を小さくしてしまうケースも少なくない。五代目が死んで44年になる志ん生、58年間も襲名する者がいない春風亭柳枝。さらには四代目で途絶えたまま100年も過ぎた橘家圓喬、そして継ぐことを許されながら病のため高座に上がれず、幻に終わった三遊亭圓右の二代目三遊亭圓朝襲名。圓右が彼岸に渡って93年になる。圓喬、圓朝とも、もはや継げそうな者が出現しそうにない大名跡だ。落語を聴きながら、そんなことを考えているうちに行きも帰りも飛行機は着陸していた。 (編集委員)

 ◆佐藤 雅昭(さとう・まさあき)北海道生まれ。1983年スポニチ入社。長く映画を担当。

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