[ 2010年5月29日 06:00 ]

飛び抜けた分析力で作品の細部にまで光を当てる大野和士の指揮

【大野和士指揮 東京都交響楽団定期演奏会】

 大野和士を客演に迎えた東京都交響楽団の定期演奏会は公演の数日前から私を盛り上げてくれました。シューマンの「マンフレッド」序曲とチャイコフスキーのマンフレッド交響曲を1度に聴かせてくれるというユニークなプログラム。コンシェルジェはチャイコフスキーのマンフレッド交響曲について「元々が物語をベースとした標題音楽だけに純粋な意味での交響曲のスタイルや形式をほとんど踏襲していない、言うならば4部からなる交響詩のような作品。構成感に乏しく掴みどころのない音楽ともいえる。このためか昔からこの曲に対する評価はあまり高くなく、往年の巨匠指揮者の中には第6番「悲愴」などの後期3大交響曲と同列に扱うことに異議を唱えた人もいた。勢い演奏される機会も少ないのが現実」と説明してくれました。
しかし、私は2人の作曲家が同じ題材をどう理解して描写したのかということを知りたくなりました。そこで英国の詩人バイロンの詩劇「マンフレッド」を求め、書店や図書館をさまよった末、ようやくこの本を手にした後は早く演奏が聴きたいと思う。悲劇的な曲を前にしてこれだけワクワクさせてくれるというのは、プログラム構成の妙と言えるでしょう。
 さて結果はと言いますと、大野和士は期待に違わず2つの「マンフレッド」の違いをハッキリと示してくれました。例えるならばシューマンの「マンフレッド」序曲は神秘的なロマン主義の風景画。一方、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲はステージの上にアルプスの山が現れて、目の前で物語が綴られて行くようとでも言いましょうか。いくつもの生き生きとした楽しげなリズムが飛び出したかと思えば、マンフレッドの押し寄せる苦悩を低弦がうねるように表現する。チャイコフスキーの持ち味である甘美なメロディーと体を熱くするような躍動感にあふれたリズムの両方を存分に楽しませてくれる演奏でした。

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2010年5月29日のニュース