仕事は全て一区切りの元「SHE」 人生訓授かった矢野監督のもとへ戻る決意「両立はできない」

[ 2021年12月30日 07:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(12)江草仁貴2軍投手コーチ

6月、大阪電通大で指導をする江草氏
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 どんな状況でもモチベーションを落とすことのない左腕がいた。阪神が前回優勝した05年のブルペンには、絶体絶命のピンチのワンポイントでも、大差でのロングリリーフでも任せられる江草仁貴(41)の姿があった。チームのために、与えられた仕事に撤した男は、引退後に心血を注いできた事業にひと区切りをつけ、来季から2軍投手コーチとして再びタテジマに袖を通す。

 1本の電話が、人生を動かした。阪神が2位で全日程を終えた数日後、江草は球団から2軍投手コーチ就任の要請を受けた。やりがいのある仕事に胸が躍った。同時に今の自分を支えてくれる多くの人の顔が浮かんだ。「中途半端ではいけない。二足のわらじでは済まない」と方向性を定め、コーチ就任に向けて各方面を奔走した。

 多忙だった。月曜日はFMふくやまでパーソナリティーを務め、金土日は阪神大学野球連盟に加盟している大阪電通大野球部のコーチとして学生を指導。オフシーズンも続けることになっていた。そして本業は株式会社キアン(本社・広島市)の代表取締役としてのビジネスだ。介護事業からスタートし、現在はスポーツイベントの企画、コロナ禍でスポーツやダンスの発表の場が制限された学生を対象にした動画投稿サイトやオンラインサロンの運営など幅広いジャンルで活動していた。

 さらに家庭人としての顔もある。6歳と3歳の2人の息子の父親であり、夫人はバレーボールのセッターとしてアテネ、北京、ロンドンと3度の五輪出場をした竹下佳江(現ヴィクトリーナ姫路取締役球団副社長)。出会いは阪神時代。知り合いのアナウンサーの紹介だった。

 「スポーツを楽しめる環境をもっと広めたい、と思って活動をしてきた。でも阪神のコーチとの両立はできない。それだけ責任がある。一方で頑張っている社員の生活も考えないといけない。会社は信頼できる人に任せることに決めました」

 阪神時代は現監督・矢野燿大、そして藤川球児からプロ投手としてのイロハを学んだ。「サインに納得できなかったら首を振れ」と言われて、振ったら試合後に「何でや」の質問が飛んでくる。それが矢野流のコミュニケーション。どんな投球イメージを持っているかを共有し、打者に向かった。「どんなときでも態度に出すな。守っているみんなが見ている」の教えは人生訓にもなっている。

 藤川のドン欲な姿勢、熱心さにも学ぶことはたくさんあった。「JFKは別格。JFKにいかにつなぐか、JFKをいかに休ませるかが僕らの役目だと思っていた」。どんな場面でも腕を振るった桟原将司、橋本健太郎とともに「SHE」と呼ばれた。名づけ親がジェフ・ウィリアムスだった。

 「阪神でプロ人生をスタートし、西武、広島の野球も経験できた。2度のトレードもマイナスだと思っていない。移籍したことで多くの人と出会えた。それが自分の財産になっている」

 現役引退を決めた17年9月、ウエスタン・リーグの阪神―広島戦(甲子園)で狩野恵輔とともにラストゲームに臨み、両軍選手から胴上げされた。同じように充実した野球人生を阪神の若手が送れるように、自分の経験を全てささげる。そのことに迷いはない。「今年の成績を見たらゲーム差なしだけど、結果の世界で優勝と2位では違う。あと少しのところ。それを埋めれば結果は出る」と語る表情は既に指導者の顔つきになっていた。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◇江草 仁貴(えぐさ・ひろたか)1980年(昭55)9月3日生まれ、広島県福山市出身の41歳。松坂世代で盈進高では広島大会3年夏に8強。専大では4年春に東都リーグ2部MVP。02年ドラフトで自由枠で阪神入り。05年5月の日本ハム戦で救援してプロ初勝利。同年は中継ぎで51試合登板し、リーグ優勝に貢献した。06年は12試合に先発。11年5月に黒瀬とのトレードで西武移籍。12年3月には嶋とのトレードで広島移籍。17年に引退。現役通算349試合で22勝17敗48ホールド、防御率3.15。阪神時代は背番号26。1メートル78、83キロ(現役時代)。左投げ左打ち。

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2021年12月30日のニュース