松坂大輔、最後の登板は四球 観客へ「感謝」最速118キロの5球 肩、肘に注射打ち貫いたボロボロの美学

[ 2021年10月19日 17:45 ]

パ・リーグ   西武─日本ハム ( 2021年10月19日    メットライフD )

現役最後の登板となった松坂(撮影・尾崎 有希)
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 今季限りで現役を引退する西武の松坂大輔投手(41)が19日の日本ハム戦(メットライフドーム)に先発登板。日米通算377試合目の引退登板で、横浜高の後輩でもある日本ハム・近藤健介外野手(28)と対戦した。

 松坂は近藤に一礼してマウンドに上がった。日本ハム、西武のベンチ、そしてメットライフドームの観客も総立ちで見守る中、投じた第1球は118キロ。2球目にストライクを投じたが、その後は球が抜け、カウント3ボール1ストライクから大きな拍手の中で投じた最後の1球は、内角に大きく外れた。

 投球を終えた松坂は、日本ハムベンチに向かって、「ありがとうございました」と一礼。万雷の拍手を受けながら、ベンチへ下がった。晴れやかな表情で、会見で見せたような涙はなかった。

 試合前の会見で「本当は投げたくなかった。今の状態もあるし、どこまで投げられるか。もうこれ以上、駄目な姿を見せたくない。と思ってたんですけど、最後ユニホーム姿でマウンドに立つ松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので、どうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後、全部さらけだして見てもらおうと思いました」と話した松坂。その覚悟をボールに込めた。

 右手中指の感覚は今もない。「ボタンを締めるのにも苦労している」と話す。その中でも、キャッチボールを重ね、17日にブルペン入り。18日に1軍合流した。スポニチ本紙の取材に「トップの位置から投げ下ろす時に、感覚がフッと消える」と打ち明けるほどだ。だが、中日時代にお世話になった治療院でメンテナンスを行い、肩や肘に痛み止めの注射を打ってまで、マウンドに立った。

 1998年、横浜高時代の甲子園で春夏連覇を達成。夏の甲子園の準々決勝のPL学園戦で250球を投げ、決勝の京都成章戦でノーヒットノーランを達成した。西武入団後は、イチロー(当時オリックス)との初対戦で3者連続三振に斬り「自信から確信に変わった」と名フレーズを残した。「平成の怪物」、そして1980年度生まれの選手は「松坂世代」と呼ばれた。レッドソックスへ移籍した際のポスティングは当時日本円で約60億円。日本投手への概念を覆す驚きの額だった。日本代表のエースとして連覇を果たした2006年、2009年のWBCでは2大会連続MVPとなった。四半世紀の間、球界の中心に松坂がいた。

 「ボロボロになるまで大好きな野球をやりたい」──。その思いを貫いた。すべての人に感謝の思いを込めた最後の登板。「今日という日がきてほしいような、きてほしくなかったような、そんな思いがあったんですけど、投げてそこで自分の気持ちもすっきりするのかな、すっきりしてほしいと思います」と話していたが、球場の視線を一身に集めた「平成の怪物」は、やり切った表情で、ファンに帽子をとり、手を振った。

 ▼松坂 最初、グラウンドに出た瞬間のファンの皆さんの拍手に感動しました。正直、プロのマウンドに立っていい状態ではなかったですが、最後の相手になってくれた、北海道日本ハムファイターズの皆さん、打席に立ってくれた近藤選手、そして今日球場までお越しいただいたファンの皆さん、球場には来れなくてもテレビなどで応援してくれたファンの方々に感謝しています。

 ◇松坂 大輔(まつざか・だいすけ)1980年(昭55)9月13日生まれ、東京都出身の41歳。横浜では3年時に甲子園春夏連覇。98年ドラフト1位で西武入団。1年目に16勝で新人王、最多勝に輝いた。07年にレッドソックスに移籍し、同年にワールドシリーズ制覇。インディアンス、メッツを経て、15年にソフトバンクで日本球界復帰。18年に中日に移籍し、20年に西武に復帰した。日米通算170勝108敗2セーブ。1メートル82、92キロ。右投げ右打ち。

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