19年京大快進撃の裏に“掛布の後継者” 気になる後輩の藤浪に太鼓判「もう忘れることはない」

[ 2021年1月23日 09:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(6)萩原誠さん

<猛虎の血 元阪神・萩原誠氏インタビュー>「整体院 誠」を営む元阪神・萩原誠氏(撮影・坂田 高浩)
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 阪神の栄光の背番号31を背負った男が、京大野球部を支えている。大阪桐蔭の主砲として、夏に頂点に立ち、91年ドラフト1位で入団した萩原誠(47)は右肩故障に苦しんだ経験を生かし「整体院誠」(奈良市佐紀町)を開業。同時に国立の名門、京大野球部トレーナーとして、選手のケアに努めている。球春は近い。勝利を目指し、練習に取り組むチームに、自らの経験と知識を注入する。

 快進撃の裏に、元阪神ドラフト1位の存在があった。19年秋の関西学生野球は、京大が風を起こした。関学大、同大から勝ち点を挙げるなど5勝7敗とし、00年秋から定位置だった最下位を19年ぶりに脱出。82年の関西学生野球連盟発足以来、初の4位へ躍進。そのベンチ裏に控えたのが萩原誠だった。

 右肘に不安を抱え、リーグ戦未勝利だった3年の原健登が、ボールの握り方など萩原のアドバイスを受け、素質を開花させた。近大戦で3安打完封勝利すると、関学大、同大戦でも完投勝利を挙げた。「近大戦では佐藤輝明から三振を取った。気持ち良かったね。1年後に阪神のドラフト1位なんだから」。トレーナーとしての手応えを、選手が与えてくれた。

 18年9月に開業した萩原の整体院に京大・青木孝守監督が通っていたことが縁となった。19年夏からサポートを始めた。「やっぱり京大は賢い子が多い。ひとつアドバイスすると、みんなでシェアして、100%伝達している。野球にも真剣に打ち込んでいる」。阪神のことは選手も知っている。だが、それが話題にはならない。選手にとっては、頼りになるトレーナーの萩原さん――だ。

 野球選手として日の当たる道を進んできた。高校通算58本塁打。3年夏は甲子園で3本塁打し、大阪桐蔭の初出場初優勝に4番右翼として貢献。2年だった松井秀喜とともに高校ジャパンに選ばれた。91年ドラフトで阪神が1位で指名。掛布雅之の後継者として背番号31を背負った。

 「阪神を意中の球団にしてたけど、まさか1位とは思わなかった。しかも31番。重すぎると思っていた。でも、掛布さんも期待している選手にというお話で、断ることはできなかった」

 今でこそ「あれだけ注目されたのはありがたかった」と振り返るが、相当なプレッシャーがかかる日々だった。加えて、高校時代から右肩の不安を抱えていた。打撃に関してはステップアップしていたが、送球難は解消しない。阪神の成績も低迷し、成長を待つ余裕もなかった。97年オフに左腕・江坂政明とのトレードで近鉄入り。6年間のタテジマ人生だった。

 苦しんだだけに、大阪桐蔭から阪神ドラフト1位というルートを歩む藤浪晋太郎を常に気にしている。「コントロールの問題は技術面だと見ていた。そこを本当によく勉強して、答えを見つけたと思う。もう忘れることはないはず」とトレーナーの目で断言した。

 引退後に阪神の31番で良かったと感じた出来事があった。「あるイベントの野球で掛布さんと三遊間を組んだんです。僕がショート。2人とも31番でね。あれは楽しかった。めっちゃうれしかった」。野球少年に戻った笑顔だった。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◆萩原 誠(はぎわら・まこと)1973年(昭48)4月6日生まれ、大阪府出身の47歳。大阪桐蔭では通算58本塁打。3年夏の甲子園大会で初出場初優勝を達成。91年ドラフト1位で阪神入団。阪神―近鉄―IBM野洲。03年に現役引退。通算124試合で打率.192、4本塁打、14打点。背番号31(近鉄では35)。現役時代は1メートル78、78キロ。右投げ右打ち。

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