【内田雅也の追球】犠牲者名簿の名前

[ 2021年1月17日 08:00 ]

西宮震災記念碑公園に建つ西宮市犠牲者追悼之碑
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 1995年1月17日、阪神・淡路大震災のあった朝、大阪・東三国の自宅から歩いて新淀川大橋を渡り、出社した。大阪市営地下鉄(今の大阪メトロ)御堂筋線は中津から北が止まっていた。

 夕方、デスクから警察・消防発表の犠牲者名簿を手渡された。原稿にすべき名前を見つけだせ、である。辛い仕事だった。亡くなられた方々を思い、ページを繰った。

 「西宮市 辰馬龍雄」に目がとまった。阪神電鉄運動課長として甲子園球場ラッキーゾーンの敷設に尽くした方ではないのか。名前は毎日新聞・玉置通夫さんの『一億八千万人の甲子園』(オール出版)で知っていた。

 47年春、阪神・若林忠志監督の持論を受け、辰馬氏は「ホームランが出ない野球なんて面白くない」と実現に踏み切った。シーズン中の突貫工事で金網フェンスを設け、「幸運だからラッキーゾーンとしよう」と名づけた。米国に留学し、ワシントン大を卒業した辰馬氏は英語も堪能だった。

 ただ、確認作業に手間取った。何しろ電話がつながりづらい。夜、その人で間違いないと分かった。倒壊した自宅の下敷きになったのだった。91歳だった。西宮市長、日本テニス協会副会長も務めた。甲陽学院理事長でもあった。原稿は2段見出しの記事となった。

 55年4月発行の阪神電鉄社史『輸送奉仕の五十年』に『甲子園の三十年』と題した座談会がある。戦後、甲子園球場の進駐軍接収が部分解除となった47年のセンバツ開会式、「久々で球場の門は開かれ、集まって来た大観衆は私たちと同様、全く歓喜の絶頂にありました。本当に劇的シーンでした」と語っている。甲子園を愛していた。

 辰馬氏が西宮市長に就いたのは63年4月30日。当時現職市長が海岸を埋め立て、石油コンビナートを建設する計画を発表した際、酒造業者から始まった反対運動は「子孫のために環境を守る」と市民に広がっていた。

 『西宮現代史』によれば<よほどのことがなければ現職が敗れることはない><辰馬陣営では、勝てないまでも一矢報いたい>とみられた市長選に圧勝したのだった。

 辰馬市長が行った「文教住宅都市宣言」には<風光の維持、環境の保全・浄化――>とある。緑や青空が似合う甲子園の思想に通じている。

 西宮震災記念碑公園に行った。あの日のように犠牲者の名前が並んでいた。「辰馬龍雄」の名に合掌した。 (編集委員)

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