宮井勝成氏死去 94歳 選手の素質を見抜く眼力で早実、中大で全国制覇の名将

[ 2020年8月8日 05:30 ]

04年、早稲田実業OB会での宮井さん(左)と王氏
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 早実、中大の野球部監督としてアマ球界に数々の功績を残した宮井勝成(みやい・かつなり)氏が7日午前2時23分、肺がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。94歳。東京都出身。葬儀・告別式は後日、近親者のみで行う予定。早実監督時代に王貞治氏(現ソフトバンク球団会長)を育て、同氏がエースだった57年センバツで優勝。59年から監督を務めた中大でも多くの選手を輩出し、全日本大学選手権に3度優勝した。

 細かいことにとらわれない豪快な性格でも知られた宮井氏。それは野球も同じで、力でねじ伏せる野球だった。選手の素質を見抜く眼力に富み、能力を見いだして育てる。

 59年から監督を務めた中大では甲子園優勝投手だった小川淳司氏(現ヤクルトGM)を外野手で大学1年春からレギュラーとして起用。その春、優勝を懸けた駒大戦に守備のミスで負けてもずっと使い続けた。同じように同期の熊野輝光氏(元オリックス)、1学年下の高木豊氏(現評論家)も1年時から起用し、小川氏が4年時の79年に全日本大学選手権で優勝。当時のサインは盗塁だけで、どんな場面でも「何とかしろ」のひと言しか口にせず、まさに力で圧倒した優勝だった。

 同時期に、東京六大学には「御大」こと明大・島岡吉郎監督がおり、宮井氏は強く意識していたという。明大とのオープン戦のときのこと。島岡監督がシートノックをしているのを見て、普段はやらないノックを自ら打った。当時、4年だった小川氏も「宮井さんがノックするのを見たのは、あの一度だけ」と振り返る。六大学と東都。ライバルリーグの2大巨頭だった。

 どこを鍛えれば、どこまで伸びるか。選手一人一人の能力を見極め、それぞれの個性を生かして育てる。その指導は選手の「今」ではなく「将来」を見据えたものだった。笘篠賢治氏(現評論家)が上宮3年時に中大の練習会に参加したときには「これから左打ちの練習をしろ。右の3倍振っておけ」と入学前の高校3年生にアドバイス。その言葉で笘篠氏はスイッチヒッターとしての道を開き、ヤクルトで新人王を獲得した。「(左打ちでも)当てに行くな。ホームランを打てるくらい振れ、と言われたのを覚えてます。中大で僕の人生が変わった。プロの心構えも全てを教えてくれた」。偉大な恩師へ、笘篠氏の感謝の思いは尽きない。

 面倒見がよく、選手の就職の世話にも力を注いだ。手厚く育てたからだろう。各年代の卒業生たちのことを克明に覚えていて、OB会などの集まりで一人一人に声を掛ける。教え子たちが「凄い記憶力」と驚くほどで、そんな宮井氏のことを教え子たちは親しみを込めて「オヤジ」と呼んだ。早実の57年センバツ優勝メンバーを中心とした「紫紺会」の新年会には、宮井氏の招きで中大OBも出席している。小川氏がヤクルトの2軍監督に就任するときには、宮井氏が「小川が来季から2軍監督になるんだ。いろいろ話をしてやってくれ」と王貞治氏に声をかけてくれたそうで、都内の宮井氏の自宅へ弔問に訪れた小川氏は「今の自分があるのは全て宮井さんのおかげ」と感謝した。

 年を重ねても野球への情熱は衰えず、今春のリーグ戦はコロナ禍で中止となったが、昨年まで神宮球場に通っていた。都内の自宅から一人で電車に乗って通うほど元気で、時には東京・八王子の中大グラウンドにも顔を出していた。

 自宅で対応した元巨人V9戦士で宮井氏の娘婿となる末次利光氏によると、7月27日に容体が急変して救急車で病院に運ばれて入院。一度は回復しかけたが、前夜に再び悪化して帰らぬ人となった。末次氏が「亡くなって偉大さを改めて感じる」と話したように数多くの名選手を育て上げ、高校、大学で全国制覇を達成。名将が残してきた功績は計り知れない。

 ◆宮井 勝成(みやい・かつなり)1926年(大15)4月14日生まれ、東京都出身。早実、中大で内外野手としてプレー。55年に早実監督に就任し、57年春の甲子園で王貞治を擁して優勝。59年に中大監督に就任し、東都大学リーグ優勝8度、全日本大学選手権優勝3度、明治神宮大会優勝1度に導いた。94年に総監督に就任した。

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