【星野の記憶】平松政次氏 度肝抜かれたシュート バットへし折られた

[ 2018年1月16日 09:30 ]

星野の記憶9~語り継がれる熱き魂~元大洋・平松政次氏

星野氏(後列左)、伊東勤氏(前列)とともに、17年に殿堂表彰された平松氏
Photo By スポニチ

 携帯で「死去」のネットニュースを見たときは間違いじゃないかと思った。昨年は3度、ご一緒している。1月16日の野球殿堂通知式。7月14日、オールスター第1戦の前に行われた殿堂表彰式。そして11月28日、東京で行われた星野さんの殿堂入りパーティー。様子が変わっていればともかく、「おう、マサ」と声を掛けてくれる表情に変化はなかった。

 ただ、12月6日の私のパーティーには出席してもらえなかった。今思えば、岡山をはじめ東京、大阪で開かれたご自身のパーティーで元気な姿を振る舞うのに精いっぱいだったのかもしれない。

 凄いピッチャーだった。私が岡山東商2年の夏。岡山大会準決勝で1学年上の星野さん擁する倉敷商と激突した。ライトで4番に入った私に対し、星野さんは内角にシュートを投げ込んできた。バットをへし折られ、どん詰まりのピッチャーゴロばかり。度肝を抜かれた。途中から登板した私は打ち込まれ、2―11の惨敗。この試合で「星野仙一」という名前は頭から離れなくなった。

 プロ入りは私の方が少し早かったが、活躍したのは同じ時期。当時のセ・リーグには各球団に同年代のエースがいた。その中で巨人の堀内と阪神の江夏はライバルと思っていたが、中日の星野さんはそう思えなかった。あくまでも「1つ上の岡山の先輩」。同列にはできなかった。

 通算150勝が懸かった1978年6月3日の札幌円山球場。ベンチの星野さんにヤジられて頭にきた。大洋のエースとして言われっ放しは許されない。「こりゃあ、セン、出てこい!」とやり返した。

 そんなこともあったが、選手、監督として成功を収め、政財界から芸能界まで幅広い人脈を誇った仙さん。戦国時代なら天下を統一する武将になったと思う。凄い野球人生。お疲れさまでした。

 ◆平松 政次(ひらまつ・まさじ)1947年(昭22)9月19日、岡山県高梁市生まれの70歳。岡山東商で65年春のセンバツ優勝。日本石油を経て、66年第2次ドラフト2位で大洋に入団。エースとして12年連続2桁勝利を挙げ、70、71年最多勝、79年最優秀防御率、70年沢村賞を受賞。83年に球団初の通算200勝を達成し、84年に引退した。通算201勝196敗16セーブ、防御率3・31。右投げ右打ち。

 《巨人戦51勝歴代2位》平松氏は大洋で通算201勝。チームで唯一の200勝投手になっている。巨人戦は通算51勝。35勝で歴代6位の星野氏より多く、金田正一氏の65勝に次ぐ歴代2位にランクされる。70年には巨人戦で自己最多の7勝をマーク。5月25日から7月26日まで3試合連続完封を含め33イニング連続無失点を記録。ONを擁する強力打線を寄せつけなかった。

続きを表示

2018年1月16日のニュース