PL学園だからこそ育まれた宮本慎也氏のキャプテンシー

[ 2015年8月25日 09:30 ]

7月、母校のPL学園の試合をネット裏から観戦する宮本氏

 熱闘の余韻がまだ残る今夏の甲子園。「最初の夏」で主役を務めた早実の1年生スラッガー、清宮は甲子園の土を持ち帰ることはなかった。28年前、「2年生だから」と同じように持ち帰らなかった選手がいる。アテネ、北京五輪で日本代表のキャプテンを務めた元ヤクルトの宮本慎也氏だ。

 1987年夏。PL学園2年生だった同氏は背番号14の控え選手ながら甲子園出場。3年生には立浪和義、片岡篤史(敬称略)がいた。唯一の2年生だった宮本氏は準決勝で正三塁手が右肩を脱臼したことで、常総学院(茨城)との決勝に「8番・三塁」で先発出場。「守備機会は6度でしたかね。何度かセーフティーバントで三塁前を狙われた記憶があります」。決勝という大舞台でのスタメン。宮本少年は「3年生の力でここまで来たので、自分のミスで負けたらどうしようと、嫌で嫌で仕方なかった」と言う。それでも安打も放ち、堅守も発揮。PL学園は快勝し、春夏連覇を達成した。「1ついいプレーがあったんですけど、一塁手の片岡さんと走者が交錯して、痛そうにしていたので、“ベンチに戻ったら怒られるな”と」と苦笑交じりに回顧した。

 このあたりの雰囲気は、清宮が在籍する早実とは大きく違うのかもしれない。早実野球部は特待生制度がなく、寮もないため全員が通い。校舎から約1時間かけて「王貞治記念グラウンド」に向かう電車内で教科書を開いて和気あいあいと勉強を教え合う。朝練がなく、日々の全体練習は午後7時には終了。テストの1週間前から部活動は原則として休みだ。もっとも、宮本氏は「PL学園も全体練習は3時間ぐらい。あとは自主練。後輩は全体練習が終わると、走って先輩の練習スペースを取りにいく。与えられた練習ではなかった。プロで成功する選手が多いのもそういう部分があるのかもしれません」と主張する。

 同時に、当時の中村順司監督の教えといえば、「球道即人道」。宮本氏のブログタイトルもずばり「球道即人道」だ。他人を思いやるという意味で指導されたのが、(1)爪切りでも刃先を向けて渡さない(2)他校が練習試合後に風呂を使用する場合は、桶にシャンプー、バスタオル等をセットしておく(3)スリッパは履きやすいように少し隙間を空けて並べる、などだ。「洗濯物も(自分が付いている)先輩が何から身に着けるか観察して、着替えやすいように上から重ねていました」と話す。気配り。それはリーダーの大事な資質の一つだ。

 PL学園は88年夏は大阪大会で公立校に敗れ、甲子園出場を逃した。「野球だけしかやってこなかった人間にとっては、公立に負けたのはかなりショックでした」。甲子園の土が青春の記念品となることはなかったが、その代わりに日本球界No.1のキャプテンシーが育まれた。(東山 貴実) 

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